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Y!辞書 長谷川平蔵(1745~1795)
Wikipedia 長谷川宣以(はせがは~>はせがわのぶため、1746~1795)

生まれた年が Yahoo!辞書と Wikipedia で1年違うが、この程度の誤差は歴史上の人物でよくあること。

必殺シリーズSP版『三日殺し軍団』で中村主水と出会った長谷川平蔵はいつの時代の人物か。
長谷川宣以とすれば『三日殺し軍団』の時代は寛政時代前後で、『仕掛人藤枝梅安』より前になる。

『必殺忠臣蔵』と『現代版』もあるので、寛政の可能性もありえないことはないが、必殺シリーズの舞台が文化・文政~天保~幕末に集中していることから、主水が会ったは長谷川平蔵も文化・文政以降の人物と解釋したらどうなるか。

この場合、1795年に没した「初代」長谷川平蔵は候補から外れる。
池波正太郎原作、さいとう・たかを版『仕掛人藤枝梅安』で、小杉十五郎が松平定信の用心棒になったのは1798年、「初代」平蔵没後3年である。

長谷川平蔵の場合、むすこが長谷川宣義(のぶよし、1771~1836)。

「2代目長谷川平蔵」に相当する人物は長谷川宣義だろうが、彼は1836年に満65歳(誕生日後の場合)、数え年66歳で没しており、主水と出会った長谷川平蔵はそんなに年寄りではないだろう。
したがって、主水が文化・文政、天保以降に成人であった世代であれば、彼と出会った長谷川平蔵は「3代目」か「4代目」である。

宣義の、そのまたむすこが長谷川宣茂。これは現時点で生没年不詳。

そこで強引に推定してみる。

宣義は宣以が満26歳になった年、数え年27歳のときに誕生している。
1世代25~30年と假定すると、3代目は1796~1801年に生まれたことになり、千葉周作および「天保の中村主水」と同世代、「文化・文政の中村主水」より20歳前後年下である。

「3代目長谷川平蔵」が1800年生まれとすると「4代目」は1825~1830年ごろに生まれ、「幕末の中村主水」と同世代。幕末で30代~40代になる。

『だましゑ歌麿』では長谷川平蔵は最終的に、寛政の改革の行き過ぎを松平定信に進言すると言っていた。


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2009年3/5