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秋田書店コミックス
『ドカベン』第40巻(1979年12月10日初版)
『ドカベン・スーパースターズ編』第27巻(2009年2月20日初版、東京では2月13日にはすでに發賣されていた)

『ドカベン・スーパースターズ編』は単行本などで「・」なしの『ドカベンスーパースターズ編』で、「スーパースターズ編」が小さく、単行本のカバーの作品紹介では「『ドカベン スーパースターズ編』のように間に空白がある。
ここでは『ドカベン・スーパースターズ編』のように点を入れた。
これは漫画の台詞などで句読点がないことが多く、それを普通の文に引用する際に、句読点を追加するのと似ている。

 

明訓敗北前後(1979年ごろ)

1979年夏(『ドカベン・プロ野球編』以降の設定では93年夏)に土井垣監督率いる明訓高校は弁慶高校に敗れた。山田世代高2(山田17歳、岩鬼16歳)のとき。土井垣は19歳であった。
このとき、明訓は1番山田、2番殿馬、3番山岡、4番岩鬼という布陣であった。
(ここでは打順をアラビア数字にしたが、守備位置を数字で表す場合は、「一番2山田、二番4殿馬、~」のように打順を漢数字にするほうが便利である)

 

 

この敗戦で土井垣は甲子園大会開催中に、大沢監督の日本ハムに入団し、その年の後半戦から参加。土佐丸高校の犬飼小次郎も南海ホークスに入団した。
常勝・明訓の「かえす男」と「かえる男」が入れ替わったことによって明訓は敗れた。
そのことは豊福きこう氏が『水原勇気0勝3敗11S』においてデータによって証明し、土井垣も「1番岩鬼、4番山田」の重要性を痛感したはずだ。

 

 

それから29年(『プロ野球編』以降の設定では15年)、2008年のパ・リーグ、ペナントレース最終戦で、土井垣は1番山田、2番岩鬼、3番微笑、4番星王という打順で勝負した。
その前、2008年に東京スーパースターズは千葉ロッテと対戦し、中西球道と瓢箪(ロッテ時代の里中とバッテリーを組んでいた)と対戦、勝利した。
└→ロッテオリオンズ→千葉ロッテマリーンズ・球団史

 

 

そして、ホークス相手の2008年パ・リーグ最終戦で、土井垣は山田を1番に持ってきた。
奇遇なことに弁慶高校出身の義経がスーパースターズの5番打者としてスタメン出場していた。対戦相手は王監督のソフトバンクホークス。
なぜ、土井垣は懲りずに山田を1番にしたのか。
それは岩鬼が4番でなく2番であり、青森りんご園農業高校出身の星王が4番という点からわかる。

 

 

夏の甲子園で弁慶高校相手に土井垣が山田を1番にしたのは、義経が第1球でど真ん中のストレートを投げると予告したからである。当然、いつもの打順では岩鬼が1番なので、ど真ん中の初球を空振りする可能性が高い。そこが山田であれば初球HRの可能性が高く、実際、試合ではそうなった。
しかし、山田が1番になったからといって岩鬼を4番にする必要はなかったのである。山田と同様、「かえす男」としてつねに期待できる打者がいればその打者を4番にすえ、1番山田、2番岩鬼でもよかったわけである。
└→2008年(4)~2009年
└→2008年の日本シリーズI~II

 

 

山田の6打席連続HRで東京スーパースターズが勝利、クライマックスシリーズに進出。スーパースターズはCSで山田の古巣・西武と対戦したあと、宿敵・四国アイアンドッグスと対戦することとなった。

 

 

義経の予告投球の場合、いつもどおり1番が岩鬼なら三振、1番山田なら作戦どおりという一石二鳥だったのだろう。では、4番が山田で1番が殿馬や微笑だったらどうか話は違っていただろう。
 
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