「真実の歴史」を主張する歴史認識論争は不毛。歴史は人間の作り物である。虚実関係なく、ドラマ、漫画、アニメなどで描かれた物語の中の歴史を考えよう。それが真の歴史である。


 パール判事(Radha Binod Pal)や沖縄の集団自決など、教科書の記述を含め、「歴史認識」に関する論争が、だんだん、不毛に見えてきた。
 特に第2次大戦に関して、いずれも「これが真実だ」という主張がぶつかりあう。真実を語ろうとして、結局、意見が分かれるなら、むしろ歴史には「認識」があるだけで、本当の「唯一の真実」など、だれにもわからないと言ったほうがいい。

 むしろ、歴史に関しては、極力違った歴史観を複数並べたほうがいいかも知れない。
 また、教科書に書いてあったら知っていて、書いてなければ知らないという教科書絶対主義も考え直したほうがいい。
 むしろ、壇ノ浦の合戦での安徳天皇のエピソードなど、ドラマや文学で覚えている場合が多い。

 そこで、真実を求める歴史ではなく、明らかに創作、虚構であるドラマ、時代劇、漫画、映画、アニメなどで描かれた「歴史物語」を從来の歴史と合わせて並べてみた。
 実は円道祥之(えんどうまさゆき)氏の『空想歴史読本』(99)が前例としてあるのだが、一個人が書いた一冊の本なので、扱っている作品が限られている。特に奈良時代から室町までと江戸時代が少なかった。

 『空想歴史読本』では空想歴史と実際の歴史を分けていたが、ここでは一緒に扱う。所詮、「正しい歴史」も人間の創作である。

 円道氏の指摘のように、確かに創られた歴史物語には共通点がある。義経は実は生きていた、恐竜は滅んでいなかった、将軍や奉行が偽名を名乗って町を徘徊、日本でもフランスでも権力者の血を引くものが庶民として生きていた・・・などなど。

 そして、現在の日本で戦争への反省というと、第2次世界大戦に限られている場合が多く、壇ノ浦の合戦や始皇帝が六国を滅ぼした戦争への反省は余り語られない。戦争の悲惨さは経験者が生きている間、「終戦」後、60年、70年前後が限界であろうか。

 歴史を考えるなら100年後、1000年後の未来も考える必要がある。「近現代」といっても。我々がたまたま、19世紀や20世紀から100年前後の時代に生きているだけであり、第2次大戦も戦後2000年の未来にはどう記録されるか、考えてみるのも重要だと想う。


『ドラえもん』の「のら犬・イチの国」は第22巻で のら犬「イチ」の国 と表記されているが、ここではサブタイトルを「」でかこみ、「」の重複を避けるため、「のら犬・イチの国」と表記する。のら犬「イチ」の国 という表記は、作中で、のら犬「イチ」たちが作った国そのものを表すときに使う。

『ドカベン・プロ野球編』と『ドカベン・プロ野球編』の場合、実際は「ドカベン」と「プロ野球編」または「スーパースターズ編」の間に空白が入るが、ここでは当初、中点(・)を使った。空白をそのまま文字として採用すると、全角か半角か、つめるかが問題になる。漫画のタイトルや吹き出しは特殊で、句読点がなく、空白を多用するが、普通の日本語の文章では中点や句読点を補っていいだろうという判断だ。