○ジンクス
講談社漫画文庫『野球狂の詩』1巻、第4話「ジンクス」でジンクスが初登場。東京メッツの河野(かわの)がラヂオで小林麻美の「初恋のメロディ」を聴いており、これは1972年に出たレコード。第6話「スラッガー藤娘」では「甚九寿」。文庫4巻、第18話「恐怖のTO砲」のスタメン表では「甚久寿」で、いつの間にか、「甚」と「寿」の間が「九」から「久」になっている。第6巻、第29話「北の狼 南の虎・牙の章」の甲子園、タイガース×メッツのスタメン表では「甚久須」で、今度は「寿」が「須」になっている。第32話「おれは長島だ!」でも「甚久須」。
1973年8月30日に江夏豊が投打で活躍して勝利し、「野球は一人でもできる」(または「~一人でも勝てる」)と發言したとされる。
Wikipedia では「誤報」としているが、この話は当時、結構、話題になったようで、『野球狂の詩』文庫3巻の16話「秘打 鬼殺し」でもジンクスが鉄五郎に語っていた。

○景浦秋男(かげうらあきお)
山田、岩鬼、殿馬にとって鷹丘中学野球部時代の監督・景浦秋男の場合、原作では「景浦」だが、アニメのエンディングのキャラクター名(と声優名)の表示では「影浦」になっている場合がある。
山田世代にとって中3時代の景浦と高3時代の太平は、いずれも、野球界でなく普通の教師としての監督であり、いずれも岩鬼がキャプテンだった時期である。
また、徳川と太平は岩鬼を投手に起用したことがあるが、土井垣を岩鬼を投手にすることに慎重であった。水島新司に近いのは徳川監督と大平監督であろうか。
└→山田世代を指揮した監督

殿馬一人(とのまかずと)
秋田文庫『ドカベン』5巻で鷹丘中学3年時代の殿馬一人が初登場したとき、カバンに書かれた漢字は「殿馬一人」、振り假名は「とのまかずと」、クラスは「3年C組」であった。
文庫7巻で期末テストベスト20が校内に貼り出された場面で2位が「殿馬数人」。
大河内は1位、山田は19位。
大河内は山田に「19番といえば南海の野村捕手の背番号だ」と言っており、野村が南海の捕手だった時代とわかる。
94年秋のドラフト5位指名でオリックスに入ったのはイチローからの推薦によるものらしい。
└→殿馬と番場蛮

○谷津吾朗
谷津は春の選抜を観ていたときも「前略、土門さん」と言いながら感想の心の中で語っていた。これは左門豊作がボウリング大会で「別当監督さん、……」と心の中でつぶやいたのと似ている。
谷津は山田世代に対し、「さん」付けで、敬語で話しているが、もし、谷津が山田世代より1年後輩だとすると、山田たちの新幹線に同乗して宿までついていった春選抜までは中学3年で、選抜のあと横浜学院(高校)に入ったことになる。横浜学院には同名の系列中学があったのか。
もし、谷津が選抜の前から横浜学院の高校に在学していたとすると、谷津は山田世代と同輩かそれ以上の先輩になってしまう。
土門は山田世代より1年先輩で、『大甲子園』では監督、そして山田世代と同時期にプロに入った。そのとき、谷津は横浜学院に監督になった。すると、やはり、谷津は山田世代と同学年か。
同輩に敬語を使うあたり、やはり、左門豊作と似ている。
左門豊作は横浜大洋の選手だった。土門も横浜ベイスターズに入った後輩であり、奇妙な縁である。

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2008年11/25 11/25前後