もしも星飛雄馬が高校を中退しなかったらI

星飛雄馬は1951年生まれで、しかも誕生日は4月2日以降、つまり早生まれではない。

 

アニメでは1969年の宮崎キャンプでの日高美奈との初対面の時点で17歳、このとき、もし、青雲高校を中退していなければ高校2年で、時期的に高2の3学期に相当するので68年春から1年間が高2。69年春から高3の予定だった。
そして、飛雄馬は69年のシーズン開幕後、前半戦のときに18歳になっていた。このあと大LB1号をオズマに打たれ、オールスターを辞退した。
したがって、飛雄馬の誕生日は4月2日から夏のオールスターの期間までの間、春から初夏までの時期である。
現実には星飛雄馬は高校を中退してプロ入りし、3年で引退した。
学年で言えば高校1年2学期から大学1年後期の途中までの3年間がプロ野球だったことになる。

 

もし、飛雄馬が高1夏の甲子園で優勝し、伴大造の怒りを買うことなく、高校を中退していなければ、捕手の伴は飛雄馬が進学すると同時に卒業してしまったはずで、飛雄馬が高校で2年間投げている間、花形と左門もプロで飛雄馬を待っていたことになる。星一徹はそこまで考えていたのだろうか。

 

花形、伴、左門世代の場合(プロ野球編)
1949年度(1949年4/2~1950年4/1)誕生(花形の誕生日は7月ごろ)
1954年度(1954年4/2~1955年4/1)幼稚園の段階、(4歳~)5歳、花形英国留学か
1957年度(1957年4/2~1958年4/1)小2、(7歳~)8歳、花形英国から帰国か
1958年度(1968年4/2~1959年4/1)小3、(8歳~)9歳、花形ブラック=シャドーズ×王(高3)、星(小1)
1967年度(1967年4/2~1968年4/1)高3、(17歳~)18歳、夏甲子園、年末年始プロ入り
1968年度(1968年4/2~1969年4/1)大1、(18歳~)19歳、春に左門が星の速球を、秋に花形が大LB1号をHR
1969年度(1969年4/2~1970年4/1)大2、(19歳~)20歳、秋から大LB2号と対戦、年明け後に伴トレード
1970年度(1970年4/2~1971年4/1)大3、(20歳~)21歳、大LB2号、3号と対戦、飛雄馬失踪、花形と伴引退
1971年度(1971年4/2~1972年4/1)大4、(21歳~)22歳
└→引退した花形と伴はそれぞれ親の会社を継ぎ、左門が野球界で現役続行

 

少年野球時代に花形は1958年当時で13~15歳くらいに見える。また高校野球時代の最初では花形、左門、伴は1966年度で高3であった。これらの基準による花形の年齢変遷は以下に記してある。

花形満年齢変遷
花形満(解説)
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花形の5年間の英国留学期間について河崎実は『「巨人の星」の謎』で3歳から8歳までと假定し、エリザベス女王との握手も帰国直前の8歳当時としている。また、『新巨人の星』で花形が誕生日パーティーを開いており、これは飛雄馬が「少し早い七夕」(牧場春彦・談)で鷹ノ羽圭子と出会った直後でオールスターの前。
河崎実が伴宙太のところで触れたように、会社の社長の息子だった伴宙太がプロ野球の選手だったのは19歳になった年の新春から21歳のときまでの3年間で、高校卒業から大学3年までの3年間の代わりがプロ野球だったにすぎない。これは花形についても言えること。
飛雄馬がたった3年で失踪したおかげで、伴と花形は親の会社を継ぐことができたわけだ。しかし、5年たって飛雄馬が現れ、巨人復帰を目指すと、伴も花形もそれぞれ、父親との対立を再燃させることとなった。
しかし、花形は77年春にヤクルトに入ったあと、アニメでは翌78年にツバメ返し打法で蜃気楼ボールを打ち、身体を壊して、現役復帰後2年目で引退してしまった。
星飛雄馬はアニメでは78年のシーズンのあとに大リーグに移籍したが、原作漫画では79年半ばで現役を引退、二軍コーチになっている。ここで伴も花形も再び会社の仕事に專念できるようになったわけだ。

 

『新巨人の星』で花形が誕生日パーティーを開いており、これは飛雄馬が「少し早い七夕」(牧場春彦・談)で鷹ノ羽圭子と出会った直後でオールスターの前。

 

山田世代年表・比較と補足
└→明訓の山岡、北、石毛、横浜学院の土門は山田世代より1年先輩で、土井垣世代と山田世代の間である。しかし山田たちは呼びすてやタメクチで話していることが多い。もっともこれは星飛雄馬から2年先輩の伴、花形、左門に対しても同じである。ただ、飛雄馬は花形と左門にはしばしば「花形さん」、「左門さん」と呼んでいる。牧場春彦に対しては左腕時代は「牧場さん」だったが、右腕投手になってからは「牧場」と完全に呼び捨てになってしまった。