●「いわき東基準」
【1960年度】山田世代誕生
【1967年度】山田世代小1
【1973年度】山田世代中1
【1975年度】山田世代中3
【1976年度】山田世代高1――緒方勉の地元・いわき市炭鑛閉山
【1977年度】山田世代高2
【1978年度】山田世代高3
【1979年度】山田世代プロ入り

 

《根据となる時代設定》
山田世代が高校1年夏の甲子園決勝で福島県代表・いわき東高校と対戦したとき、福島のいわき市は廃坑の時代に直面していた。
いわき市の常磐炭礦(=常磐興産)が閉山になったのは1976年。常磐炭田を参照。
高校1年の夏休みの時期、山田世代が緒方勉と夏の甲子園決勝で対戦したのを1976年とすると、この基準になる。
「土井垣プロ入り基準」で土井垣が明訓に入学したのが76年度であるが、この「いわき東基準」では土井垣より2年後輩の山田世代が76年度入学になる。

 

ただし、Wikipedia 緒方勉によると廃坑が決定したのが背景となっている。閉山2年前の1974年の段階で廃坑が決定していたという意味であれば、徳川監督下の明訓といわき東の対戦は1974年でおかしくない。
└→T-CupBlog1975年~76年コメント

 

《山田世代は何年度生まれか》
1976年度で高1とすれば、1960年度生まれ。
山田太郎は1960年5月5日生まれで、岩鬼正美は1961年4月1日生まれ。

 

《山田世代の球歴》
1975年度で中3。山田は鷹丘中学で柔道部から野球部に移った。
1976年度で高1。徳川監督のもと、夏の甲子園で通天閣、土佐丸、いわき東と対戦。
「アニメ基準」では1976年で中3、77年で高1であるから、「いわき東基準」の山田世代は「アニメ基準」よりも1年後輩である。
1977年度で高2。春の選抜で江川学院、信濃川、土佐丸と対戦。
1978年度で高3。秋のドラフトは78年で、高校卒業は79年3月。プロ入りしていれば79年春から開幕。

 

《サチ子の場合》
山田太郎より9歳年下だと69年生まれ、8歳年下だと68年生まれ。
サチ子が太郎より学年で8年下、年齢で9歳年下となるとサチ子は早生まれになる。
└→山田サチ子と山田太郎の年齢差

 

《土井垣の場合》
山田世代より2年先輩なので1958年度生まれ。「明訓入団基準」における山田世代と同学年。
1976年で高3、夏の大会のあとに徳川監督から監督の座を受け継いだ。
日ハムによるドラフト指名は76年秋。
作中では犬飼小次郎が指名されたとき、南海ホークスは広瀬監督の指揮下だったが、この「いわき東基準」では、76年当時の南海の監督は野村克也。
└→土井垣将年齢変遷

 

ちなみに、「いわき市」はシナ語Wikipediaで観ると「磐城市」、つまり Pan-cheng-shi である。

 

《他の基準での1976年度》
1976年度の山田世代は「明訓入学基準」で高3、「アニメ基準」で中3、「土井垣プロ入り基準」で中2、「『大甲子園』基準」で小3、「『プロ野球編』基準」では丁度、生まれた年度である(山田太郎は76年45/5生まれ、岩鬼正美は77年4/1=76年度最終日生まれ)。

 

《他の基準での明訓×いわき東》
「明訓入学基準」では74年度で閉山2年前。「アニメ基準」では閉山翌年の77年。「土井垣プロ入り基準」で78年、「『大甲子園』基準」では83年で、山田世代がプロ選手としてデビューした86年に閉山から10周年を迎え、「『プロ野球編』基準」では明訓×いわき東が92年。廃坑のあとというよりもバブル期の終盤であった。2004年1月4日、雪山でランニングをしていた山田が緒方勉と再会、そのとき、緒形勉は「10年ぶりか」と言っていた。

 

前後一覧
08年10/20前後