社民党の議員の質問に答えたもの。

靖国参拝自粛も含め、どうせ首相在任中のポーズで、任期が過ぎるなり、辞任するなりして首相を辞めればみな、もとにもどる。
だから福田も麻生も首相在任中は国会では「村山踏襲」を言っておけば無難だと思っているだけ。
小泉純一郎も安倍晋三も今では堂々と靖国神社に参拝している。

日本人拉致問題についてアメリカその他が協力を示すのと同じく、外交辞令というのがある。
日本の首相にいちいち踏み絵を強いているマスコミや社民党も単純。

要するに日本の首相の歴史認識を検定したがっている朝日新聞的な勢力は、日本人のうち、政治家が首相在職期間だけ、日本の過去の戦争を口先だけでも反省している振りさえしていれば、それを本気にして満足するわけだ。

大東亜・太平洋戦争から63年だが、この63年が100年、150年、200年になっても、こんな踏み絵が政権交代のたびに続くのかね。
それより、日本で「先の大戦」というと大東亜・太平洋戦争に決まっているのがおかしい。

壇ノ浦の合戦や関ヶ原はどうした。

大体、「先の戦争」ならロシア・グルジアがあっただろう。

靖国参拝を批判する人は政教分離を主張していたが、今では分祀を靖国に強要する動きになっている。これを国会議員などがやったらそれこそ政教分離に違反する。
靖国の教義を批判しているような人たちが、靖国に祭られていること、それに参拝することを、まるで霊魂のたたりでもあるかのように大騒ぎするほど「信仰熱心」なのは矛盾している。

靖国の宗教的な教義を否定すれば、政治家の靖国参拝は、物理的、唯物論的には人間が建物の前で手を叩いたり、身体を曲げたりしているだけで、「祭られている」のも名簿だけで、紙に字が書いてあるだけである。
靖国参拝を批判する人は何に怒っているのか。零でもいると思っているなら、批判する側こそ靖国の教義を信じている信者である。靖国の教義が間違いなら参拝を批判する理由はない。總理大臣の靖国参拝も唯物論から見れば、政治家が職業の人間が神社という建物で手を叩いたり、お辞儀をしたり、何か書いたりしているだけである。

また、村山富市は社民党党首でありながら、首相になった途端、自衛隊は合憲であるとし、日米安保を認めるなど、立場に応じて主張を変えた。また、首相だったころの村山富市が一度は「日韓併合は合法的だった」と答辯したこともある。

政治家による靖国神社参拝を批判する論調の根据は「政教分離」だったが、今では国会、政府の圧力で分祀を強要しようという動きになっており、これこそ「政教分離」を無視している。
佛教やキリスト教の教義が気に入らないと言って、経や聖書の書き換えを強いるようなものだ。

靖国に批判的なの勢力には佛教界やキリスト教界もあるようだが、これは蘇我・物部の時代と同じ、あるいはインドやパレスチナ、ユーゴスラビアで繰り返された前世紀的な宗教戦争と同じ。
政治家が結婚式を佛教の寺でおこなったら、神社と教会は抗議するだろうか。
靖国への批判は魔女狩りかガリレオ裁判に近い。

そもそも朝日新聞が首相に「靖国参拝中止」を強要する踏み絵の根据が「国益を考えよ」である。朝日新聞はガチガチの国家主義者、全体主義者である。
總理大臣も辞めれば靖国神社に参拝する。政治家が總理でいる間の形だけの言動をチェックしたがる隣国と一部マスコミもお人よしである。


田母神俊雄航空幕長が企業に投稿した論文が問題となり、更迭された。田母神氏の意見はまことに正論であり、更迭は言論弾圧である。朝日新聞では「独自史観」としているが、田母神氏のような意見は論壇で前々からあった。また、「事実誤認」という指摘もあるが、それは見解の相違で、邪馬台国の位置や徳川家定の死因、「家重は女だった」説など歴史観は十人十色あり、テレビでいろいろな歴史の假説を扱っているが、それは問題にならず、こういう一企業への論文だけ問題にするのは異常である。

また、他のメディアでは「村山談話から逸脱」していることを指摘しているが、日本国民は村山富市の奴隷でも信者でもないので、異論が出るのは当然。むしろ、田母神氏は勇気ある發言をしたと言える。

メディアで田母神氏に批判的な論調は自分の頭で考えていない。政府見解と違うからダメ、村山談話と違うからダメ、東京裁判を受け入れたはずということで、頭が固まっており、自分の経験や自分の考えでものを言っていない。頭にカビでも生えているようだ。「独自史観」が糾弾されるのであれば、今後、この社会で個性的な意見、考えは出てこないだろう。

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2008年10/2


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2008年10月