大岡忠相2.4 南町奉行
徳川吉宗が南町奉行に大岡忠相を起用、享保の改革を進めた。
└→大岡越前守忠相

<奉行以外>長谷川平蔵火付盗賊改方長官)
火付盗賊改方の母体である火付改と盗賊改が一本化されたのは1718年で、享保の改革が始まって2年後のことであった。
長谷川平蔵こと宣以は火付盗賊改方長官として有名。その父親は京都西町奉行の仕事もしていたらしい。

小田切土佐守(北町奉行
次に、文化・文政時代、北町奉行・小田切土佐守直年の配下に同心・暁蘭之介がいた。
└→同心暁蘭之介

榊原忠之(北町奉行)
1832年、鼠小僧が処刑された。
『必殺仕事人・激突!』によれば山田朝右衛門にとっての元服後の初仕事だったらしいが、鼠小僧の窃盗自体が濡れ衣だった。『必殺からくり人』と『八百八町夢日記』によると処刑は偽装で、『~夢日記』で次郎吉は三郎三と改名し、榊原忠之の隠密となった。榊原忠之は1766年生まれで、次郎吉“処刑”当時は数え年67歳。それで犯罪者のところにおもむき、配下の者たちが来る前に大立ち回りをしていたのだから、すごい体力である。

遠山左衛門尉景元(北町奉行、南町奉行)
鳥居耀蔵、鳥居甲斐守忠耀(南町奉行)
1840年、遠山金四郎が北町奉行になり、1841年に鳥居が南町に就任。
└→遠山金四郎

中村主水は江戸南町から長崎奉行所に異動を言い渡されたが、実際は仲村主水という侍との人違いであり、中村主水は江戸に戻ることとなった。
榊原忠之と遠山金四郎は、いずれも町人や素浪人に化けて街を捜査していた。
三笠フーズのように表立った調査ではわからない不正が横行していたわけで、法治も警察機能も崩壊していたのだろう。

矢部駿河守定謙(1789~1841)
1841年に南町奉行になったものの、鳥居耀蔵の工作で罷免され、1841年末(陽暦で1842年初め)に鳥居が南町奉行となり、矢部は1842年に絶食して死去。
闇の会に鳥居暗殺を依頼しており、元締めが直接、主水に仕事を依頼した。
『仕置屋』の主水は鳥居就任のときに北町から南町に移ったので、矢部が南町奉行のとき、主水は北町の同心だったことになる。
一方、『オール江戸警察』の主水は南町の同心として矢部の配下で働いたことがあり、そのあとに鳥居が就任してきた。

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2008年10/2