ルールを拒否しながらルールで他人を縛りたがる人たち 

法を犯した者が「犯罪者」であれば、歴史上の「英雄」の多くは「犯罪者」である。

それは、石川五右衛門や鼠小僧次郎吉、アル・カポネの話とは限らない。
玄奘は国禁を犯して唐から出国したが、天竺から帰国したときは大歓迎を受けた。
大黒屋光太夫はロシアに漂着し、10年たって戻ってきたが、当時の日本では建前上、それだけで死罪であった。しかし光太夫は許された。
ジョン万次郎も海外に行って戻った日本人が死罪とされた江戸時代に、アメリカから帰国して島津斉彬に謁見、漁師の出でありながら幕臣となっている。
赤穗浪士による吉良邸への「討ち入り」は単なる家宅侵入、傷害および殺人である。

少なくとも2年ほど前に見たニュースでは、院に「乳腺」と書くだけで法律違反となる場合もあった。
また線維筋痛症に効く薬は日本で認可されていない。患者数が多いので、特定疾患にもならず、保険も適応されない。適応には法的なルールがあるからだ。

臓器移植、堕胎(胎児殺し)、代理出産など、認められるかどうかは国によって違う。

ルールを破るものは人類にとって癌であり、宝である。

法相が死刑執行を許可したことで、また、朝日新聞が騒いで、死刑廃止論者の声を大きく取り上げている。朝日新聞は前の法相を「死神」扱いした新聞である。それなら、東条英機以下、日本の指導者を死刑にした東京裁判は「死神」による不当な法廷であろう。
死刑執行を支持する人は個別の事件の当事者であるの。だから朝日新聞から「死神」呼ばわりされたときの抗議などでも、その抗議には魂がこもっている。
一方、死刑反対論者はあくまで自己満足のための傍観者にすぎない。死刑反対論者は死刑制度によって直接、被害を受けたわけではない。自分個人の思想=主観によって「死刑はけしからん」と無責任に吠えているだけである。
少なくとも、凶悪犯罪を犯した死刑囚の家族は、「被害者のかたに申し訳ない。死刑も仕方がない」と言うのが普通である。

国連は本来、連合国である。国際社会が東京裁判を正当化している限り、死刑反対論に説得力はない。

『はだしのゲン』で中岡元が、1945年の「終戦」直後、子供たちが泥棒などをしたことについて彼らが望んでそうなったのではないということで辯護していた。しかし、それなら日本が戦争に走ったのも当時の国際情勢のせいではなかろうか。