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1975年(3)76年(1)、(2)、77年78年I78年II~79年
──────────└→『ドカベン』と1976年II


1976年(2)――水原勇気デビュー、ジャイアンがツチノコ發見、日本シリーズ
また、『野球狂の詩』で広島の古葉監督はこの年、武藤兵吉を獲得して東京メッツの水原勇気のドリーム・ボールを打倒。ここで武藤はドリーム・ボールを打つための練習で、普通の球を打てなくなっていた。それでも水原勇気と岩田鉄五郎はドリーム・ボールで勝負し、打たれた。

これは『巨人の星』の星飛雄馬でもよくあることだった。打者が大LB2号を狙っているときに1号を投げて相手の裏をかく場合も、相手に見抜かれていたか、失敗したようだ。1970年の伴との最後の対戦でも、伴は大LB3号を打つため半病人状態になっていたので、普通の速球でも打ち取れた。
『柔道一直線』の一条直也は、師匠・車周作から地獄車を教わったが、のちに車周作が外国人選手に地獄車破りの策をさずけた。それを知った直也はその外国人選手を普通の一本背負いで倒し、そのあと、同じ日本人選手である赤月を地獄車で破った。星飛雄馬はこうした臨機応変な技の使い分けが苦手だったようだ。

1976年10月11日、王貞治が715号ホームランを放ち、ベーブ・ルース(Babe Ruth、1895~1948)の記録を抜いた。
アニメ版『ドカベン』では鷹丘中学野球部時代の岩鬼が夏子とともに、後楽園球場のスタンドで巨人×阪神戦を観戦。これは第15話「おーよ!ピッチャーで四番ズラか?」()で、東京MXテレビの再放送でのこの福大だったが、MXテレビの番組紹介ページで「王選手715号ホームラン!」になっていた。また、別のDVD紹介HPでも、この副題で紹介しているものがある。
└→アニメの『ドカベン』
└→『ドカベン』生誕~鷹丘中学

この年、剛田武ことジャイアンが空き地でツチノコを發見(『ドラえもん』。「ツチノコ見つけた!」)。これはドラえもんとのび太が当時からおよそ70年後の未来(西暦2045年)から連れてきたもの。
└→『ドラえもん』の「ツチノコ見つけた!」における時代設定

また、『ニセ宇宙人』で、剛田武と骨川スネ夫がニセ宇宙人から「首相に会わせろ」と言われ、三木武夫首相の連絡先を交番に訊いていたように想う。

76年、長嶋巨人はセ・リーグ優勝。日本シリーズでは阪急の上田監督が飛雄馬のノーコンに対抗し、ピッチャー返しで対抗。これは1965年、長嶋が中日の投手の危険球(のような投球)に対しておこなったピッチャー返しと似ており、川上はこれを認めなかった。だから、68年9月18日の対阪神戦で長嶋は王が受けた危険球に対し、本塁打というかたちで応えた。
しかし、監督となった長嶋は阪急打線のピッチャー返しについて「文句は言えん」と言った。やはり、自分が使ったからだろう。星飛雄馬はSSスライディングでピッチャー返しの打球を止めた。飛雄馬が危険な打球を足で止めたのはこれが2回目である。

日本Sは阪急が日本一に。阪急としては、巨人V9の期間、日本一を阻まれていたが、75年で広島を破って念願の日本一、76年で宿敵・巨人を破っての日本一を実現した。
年末、飛雄馬は一徹から「大リーグボール養成ギプス右投手用」を譲り受けた。下半身につけるバネである。

1976年に「文化大革命」が終了したらしいが、「文革」は大虐殺と糾弾を含めた大混乱だったらしい。

「文化大革命」などとと呼ばれるから欧洲の文藝復興や産業革命、日本の明治維新、昨今の携帯電話とインターネットの普及のようなものを連想してしまうが、これでは「文革」の実態がまったくわからない。
当時の呼び方が「文革」だからそのまま使うのであれば、「大東亜戦争」も同じことであろう。
1978年、鄧小平(Deng Xiaoping)による改革開放政策が始まった。
鄧小平の生涯は2003年の映画『鄧小平』で描かれている。
雅虎
鄧小平 電影 盧奇 2003 で検索

@kyojitsurekishi 「赤い運命」
昭和34年(1959年)の伊勢湾台風から17年後、昭和51年(1976年)当時の話。
16:25 - 2014年3月15日

1976年の「赤い運命」放送当時から見て、1959年の伊勢湾台風は17年前。
2017年の時点で17年前は2000年。この時には平成12年台風第14号があった。
5:31 - 2017年8月14日