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1975年(3)、76年(1)、(2)77年78年I78年II~79年
──────└→『ドカベン』と1976年I


1976年(昭和51年)正月、長嶋茂雄が花形・明子夫妻宅を訪問。かつて、電話のなかった星家に川上監督が訪問したときと異なり、今度は電話で予約あり。一徹も花形邸を訪れた。長嶋はそこで「右投手・星飛雄馬はイケます」と言い、飛雄馬の「背番号3」を譲ると宣言。
宮崎キャンプ(おそらく2~3月)で、長嶋は飛雄馬をテスト生として参加させた。

1967年秋にも川上監督は飛雄馬をテスト入団させた。川上も長嶋も、星一徹が鍛えた飛雄馬の実力、実績を知りながら、敢えて、テストした。酷に見えるが、これは妥当な判断である。
中日ドラゴンズが中村紀洋をテスト入団させたように、実績があっても負傷が続くようでは、球団はベストの常態かどうか、選手を試さないといけない。星飛雄馬は川上巨人に入ったとき、甲子園で利き手の左親指が割れたあとで、そのせいで星は決勝で速球をほとんど投げられなかった。球団としては、まず、星飛雄馬の指が治っているか確認しないといけない。

星飛雄馬が長嶋ジャイアンツに復帰したときは、左腕を破壊して5年間、プロ球界から離れており、テストするのは当然。
星飛雄馬は“ビッグ”ビル・サンダーから教えられたスクリュー・スピン・スライディングを使って紅白戦に臨み、入団。背番号3をもらって、涙を流して喜んでいた。

しかし、投手から1塁に移った川上の背番号16と違い、長嶋の背番号3はもともと、3塁手の背番号である。長嶋以前は千葉2塁手の背番号だった。投手のエースナンバー18は、やはり、堀内のものだった。飛雄馬は長嶋や一徹のような3塁手としては使い物にならなかったのだろうか。

また、SSスライディングは川上が否定した魔送球やピッチャー返しより危険である。これは大リーグ時代のウルフ・チーフの殺人スライディングに近く、それを破ったのが巨人にいた番場蛮(1954~1974)であった。今度は星飛雄馬がその殺人スライディングを武器にすることになる。それを破ったのは、ウルフが日本で在籍していた阪神タイガースの掛布雅之であり、やはり、相手と同じ跳び蹴りだった。

“ビッグ”ビル・サンダーは阪神コーチに就任し、掛布にSSスライディング破りを教えた。アニメ『新巨人の星』ではサンダーは歌舞伎の連獅子を見て、自分の子を谷に突き落とす獅子の精神を植えつけられたらしい。
「百獣の王・ライオンは自分の子を千尋の谷に突き落とし、這い上がって来たライオンだけを王者のあとつぎとして育てる」という話が『巨人の星』でよく出てくるが、ライオンはそんなことはしないらしい。これは連獅子の話で、東洋の傳説(傳は傅ではない)の獅子をアフリカのライオンを混同した結果だろう。
そしてのちに阪神のロメオ・南条がピッチャー返しで飛雄馬を苦しめることになる。阪神は田淵と掛布が攻撃のメインで、監督は吉田義男だった。
76年のオールスターで、セ・リーグは古葉監督。飛雄馬は右翼手として起用され、右手で大遠投。一徹は長嶋が「衣の下の鎧」を見せたと表現。下半期、星は右腕投手として復帰。
└→1976年『ドカベン』『新巨人の星』関連

1976年、蒸気機関車が引退。『秘密戦隊ゴレンジャー』で「機関車仮面」が登場。
└→3月2日