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1970年(5)71年72年I72年II~73年I73年II74年(1)75年(1)
「ガッツ10番」73年ドラフト、「ガッツ10番」における時間の停滞と逆行現象I、II74年(1)

『野球狂の詩』で描く73年と74年――「ガッツ10番」における奇妙な時間の停滞と逆行現象
「ガッツ10番」における奇妙な時間の停滞と逆行現象I
 ここで日下部と富樫の経歴が問題である。

 

 

 「ガッツ10番」の前に富樫、日下部を扱った「ウォッス10番」によると、富樫と日下部が新潟西高校野球部の3年生だったときの地区予選の期間、富樫の後ろで学友2名が麻丘めぐみと桜田淳子の話をしていた。麻丘めぐみの歌手デビューは72年に「芽生え」でデビューしたもので、73年にはあの「わたしの彼は左きき」がヒット。桜田淳子は72年に『スター誕生』に出演し、翌73年に阿久悠作詞の「天使も夢みる」でデビューし、「わたしの青い鳥」のヒットも73年。
 そうなると、富樫ら高校3年時代のエピソードは1972年以降になる。また、新潟西高の試合を観る東京メッツ・ナインの描写では、73年が舞台の「よれよれ18番」以降に入団したメンバーが入っているようで、どうも1973年のできごとである可能性が高い。
 「ガッツ10番」新潟西高校は富樫ら3年生のとき、夏の甲子園で優勝。11月10日のドラフトで南海の野村監督が日下部を1位指名し、じきじきに野村が日下部に会って入団を要請したが、日下部は大学進学を希望して入団を拒否。その代わり、富樫がメッツから3位で指名され、岩田鉄五郎の立ち会いで入団。

 

 

 

 ちなみに、新潟西高校の門の表記では「私立新泻西高校」となっている。ちなみに、新潟西高校の門の表記では「私立新泻西高校」となっている。34年の歳月が過ぎた2007年、新潟県議会でこの「新泻」という表記が問題視されることになる。

 

 

 

 話を戻すと、富樫がメッツに入団した直後、TO砲の丘知将が背番号10を富樫に譲った。TO砲の唐部と丘は73年秋のドラフトで指名され、74年春から現役開始であるから、富樫のメッツ入団は73年秋以降である。富樫はその後、「4年間」メッツ二軍で過ごし、その間、日下部は早稲田大学野球部に入り、2年目でノーヒット・ノーランを達成。
 3年たち、富樫の父親が入院していた新潟の平井病院で、日下部ファンの看護婦たちが「富樫とかいうのがいたけど、もうクビになっているんじゃないの」という主旨の不注意な發言をしていた、その「富樫」の父親はこの病院の患者であり、日下部、富樫と同じ高校の出身だった夕子も看護婦としてその場にいた。病院内で職員や患者の個人情報が伏せられると、噂話の際、当事者が身近にいるのを知らずに、余計なことを言ってしまう恐れがあるという歴史の教訓である。
 ここで看護婦たちは「(日下部は)来年卒業したらプロ入りね」と言っており、3月の大学卒業が「来年」であれば、大学3年の終わりから四年に進学して年明け前のころの台詞であろう。季節の描写から春以降、夏ごろにも見える。
 また、感覚として3月は「年度末」なので、「再来年」というべきところを「来年」と間違えた可能性がある。

 

 

 

 日下部は3試合連続ノーヒット・ノーランで早稲田を優勝に導く。

 

 

 

 夕子は高卒で看護婦になったが、看護学校に通う時間はあったのだろうか。高卒で看護婦になった日高美奈の例もある、
 そして、作中で「四年目」とされた11月のドラフト会議。
 会場前の看板に「昭和49年度日本プロ野球ドラフト会議会場」とある。メッツは日下部を1位指名。