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1970年(5)、71年、72年I、1972年II~73年I、73年II、『侍ジャイアンツ』が描く西暦1973年(1)
1971年(昭和46年)の年明け、川崎の教会で左門と京子の結婚式。飛雄馬は窓の外にいた(『巨人の星』・「エピローグ」)。
1970年(5)、71年、72年I、1972年II~73年I、73年II、『侍ジャイアンツ』が描く西暦1973年(1)
1971年(昭和46年)の年明け、川崎の教会で左門と京子の結婚式。飛雄馬は窓の外にいた(『巨人の星』・「エピローグ」)。
『野球狂の詩』によると、この年の2月、北海道の白大雪高校野球部に名投手・火浦健が在籍していた。甲子園で「北は不利」との定説を覆すと期待されたが、ヤクザだった養父が組を辞めようとして子とされ、退部した火浦健が復讐したことで事実上の退学、傷害事件で2年服役(事実上、退学)することになった。
北海道勢初の甲子園Vは、これにより、2004年の駒大苫小牧まで待つことになったのだろう。
火浦のおかげで野球部への入部者が増えていたようだが、退学直前、火浦は2年生以上だったのだろうか。
1971年2月は1970年度の学年の3学期に相当し、火浦が1年生だったとしても70年春の入学で、退学しなければ
72年春には卒業していたはず。これが双子の弟・王島大介の経歴を複雑にしている。
北海道勢初の甲子園Vは、これにより、2004年の駒大苫小牧まで待つことになったのだろう。
火浦のおかげで野球部への入部者が増えていたようだが、退学直前、火浦は2年生以上だったのだろうか。
1971年2月は1970年度の学年の3学期に相当し、火浦が1年生だったとしても70年春の入学で、退学しなければ
72年春には卒業していたはず。これが双子の弟・王島大介の経歴を複雑にしている。
『ドラえもん』の「プロポーズ作戦」ではのび助と玉子が12回目の結婚記念日を迎えた。1959年が「12年前」だから、この作品ののび太は1971年ごろの世界に住んでいたのだろう。
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「13年目のプロポーズ」(1972年、2005年)
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「13年目のプロポーズ」(1972年、2005年)
『侍ジャイアンツ』の原作で番場蛮は1971年が一軍1年目で、初先發でヤクルトの眉月光に癖を読まれて打たれたが、すぐ、乗り切り、6勝2敗(注釋)。
1971年、沖縄返還協定。馳星周(はせせいしゅう)著『弥勒世(みるくゆー)』は沖縄返還(日本による再支配、米軍駐留継続)の直前の話。
1970年代、カラーテレビが普及。当時、野比家では白黒テレビが中古になっていた。ドラえもんとのび太は玉子にカラーテレビへの買い替えを提案するが、玉子は中古テレビを殴ってなおし、「カラーはもっと値下がりしてからね」と買い替えを保留。
ドラえもんはタイムふろしきで白黒テレビを新品にしたが、進化放射線を使えば液晶カラーテレビやワンセグ(携帯受像)の携帯電話に変換でもできそうなものだ。「ちん品堂」の通信でも可能である。
玉子は初期設定で1940年代初めの生まれ(星明子と近い世代)だが、この世代の人は、家電でも何でも調子が悪いと、殴ればなおると想っている傾向があり、昨今のパソコンにそれで対処すると大変なことになる。
ドラえもんはタイムふろしきで白黒テレビを新品にしたが、進化放射線を使えば液晶カラーテレビやワンセグ(携帯受像)の携帯電話に変換でもできそうなものだ。「ちん品堂」の通信でも可能である。
玉子は初期設定で1940年代初めの生まれ(星明子と近い世代)だが、この世代の人は、家電でも何でも調子が悪いと、殴ればなおると想っている傾向があり、昨今のパソコンにそれで対処すると大変なことになる。