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1969年、1970年(1)、(2)(3)(4)(5)

1969年・大リーグボール1号から2号へ、アポロ月着陸

1970年(昭和45年)は大阪万博の年。
正月に東京の野比家にドラえもんとセワシ(のび太の孫の孫)が来訪し、ドラえもんが居候を開始。
『ドラえもん』の「未来の国からはるばると」で記録されている。
のび太はのちに1964年8月7日生まれと判明するが、そうなると70年の正月はまだ5歳になる。
ドラえもんとセワシが提供したアルバムによると、のび太は1979年に大学受験で落第、19年後(推定1989年)にジャイアンの妹・ジャイ子と結婚する予定だった。

 

 

ドラえもんの助っ人として鳥型ロボット・ガチャ子も22世紀から送り込まれたが、小学館『ド・ラ・カルト(do:ra:carte)』によると、原作では半年で去って行った模様(参考)。
なお、73年に放送された日本テレビアニメ版では、最終回でドラえもんが去ったあともガチャ子が残ったはず(リアルタイムで観たときの記憶)。

 

 

 

また、この1970年の正月に花形満が阪神の村山実監督の自宅で消える魔球の謎を解明。当時、「あっと驚くタメゴロー」がはやっていた模様。
左門豊作も妹・ちよの言った「引き算」の一言から、「100-80=20」という打倒策をひらめいた。これは69年秋に花形が「消える魔球の正体は魔送球だ」と気づいたときに打倒策を試みていればわかっていたもの。

 

 

 

オズマが帰国。中日の星コーチは伴をトレードで獲得することを決め、飛雄馬と伴は後楽園球場で、花形、左門と非公式に対戦。飛雄馬は負けを認め、伴は明子からの忠告を受け、中日への移籍を決意する。
ロッテに移籍した江藤慎一にかわって背番号8。伴の代わりに中日が巨人に譲った投手はアニメで「黒松」、伴の巨人時代の119番を受け継いだ。

 

 

 

この年から与那嶺要が中日のヘッドコーチになったはずだが、『巨人の星』ではこの年も星一徹がヘッドコーチのような役割であった。梶原一騎が与那嶺の活躍を描くのは『侍ジャイアンツ』と『新巨人の星』である。
伴が移籍したあと、飛雄馬は宮崎キャンプでも不調だったが、飛雄馬からの葉書で調子を取り戻す。長嶋は飛雄馬への助言で「めくら蛇におじず」という諺を使っていたが、のちに変更(改竄)された。
アニメでは美奈の上司だった沖竜太郎医師が飛雄馬に助言した。山奥の診療所では「たらい回し」は不可能であろう。
└→『巨人の星』KC16巻、文庫9巻「真冬の特訓」

 

 

 

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