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『主水死す』、黒船、安政の大獄~桜田門外の変清川八郎家茂上洛元治年間慶喜
└→太平天国└→補足└→日米修好通商条約


黒船来航と仕留人
 1853年、家定が13代将軍になった。
 この年、ペリー(Perry)の黒船が来航。『暗闇仕留人(くらやみしとめにん)』によると、中村主水は、また、北町奉行の同心だった
 主水は「仕置人」時代の仲間だった半次、おきんと再会した。このとき、彼らは「鉄や錠もどこかに潜んでいるんだろうな」という会話をしていた。しかし、主水はすでに文化・文政時代に念仏の鉄と再び「仕置人」として組んでおり、おそらくは天保時代に棺桶の錠と再会していたはず。
もちろん、「天保時代の主水は1849年ごろに没しており、幕末の主水は別人」とも解釋できる。この場合、幕末の主水が「仕留人」の前に経験した「仕置人」稼業も黒船来航直前だったことになる。

 中村主水は糸井貢、石屋の大吉とともに「仕留人」グループを結成。糸井貢は高野長英の弟子の蘭学者で、しかも、「からくり人」の座長と同じく、撥(バチ)を武器とする三味線屋で、後述するように武家のむすめに絵を教えるなど、マルチ人間だった。
 「試して候」では攘夷派が人間を大筒(大砲)の試し打ちの的にして、半次が瀕死の重傷を負う。仕留人はこの攘夷派を仕置き。このような大筒の的に人間を使う非道は10年後にも繰り返され、また、主水の仲間が被害者になった。

 1854年、2度目の黒船来航。
 『暗闇仕留人』の最終回「別れにて候」はこの時期が舞台。このときまでに、半次は裏稼業から脱退していた模様。仕留人の最後の標的は若年寄・松平玄蕃頭(~げんばのかみ)とその仲間の町人たちだった。若年寄は四人が定員で、「歴代の若年寄」のHPを観ると、当時の若年寄には松平玄蕃頭忠篤がいた。1838年から1854年まで在職。

 松平は貢が支持する開国派で、貢は松平のむすめに絵を教えていた。貢は戸惑うが、主水と大吉が貢に参加を要求。しかし、主水と大吉は相手グループの町人たちを殺害し、肝腎の松平の仕置きを貢にやらせてしまった。案の定、貢は松平の「私を殺せば日本の夜明けが遅れるぞ」の一言に手が止まり、返り討ちにされてしまう。
 主水の裏稼業では、このように個人的な関係で最も失敗しそうなメンバーに任せるような奇妙な段取りが多い。
 貢の死により、主水は「仕留人」グループ解散を決意。
 雪の降る中、大吉とおきんは江戸を離れ、主水は横濱(→横浜)で行われるアメリカとの交渉の警護の一人に選ばれた。

 1854年、神奈川で日米和親条約締結。
 このあと、幕末の主水は文化・文政や天保の主水と同様、北町から南町奉行所同心となり、「仕事人」として歴史の舞台に登場する。
 黒船来航から大政奉還までが「幕末」だが、『影の軍団』にも「幕末編」があり、『鞍馬天狗』も幕末が舞台である。
 1855年、天才科学者・キテレツ斎が航時機、つまりタイムマシンの製造法を『奇天烈大百科』に記録。

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08年9/13