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シーボルト事件緒方洪庵とのび左エ門、赤胴鈴之助と鼠小僧次郎吉、天保初期


赤胴鈴之助
 『赤胴鈴之助』の鈴之助は千葉周作(1794~1855)の門下生だったらしい。真空切り(真空斬り?)はほとんど超能力である。千葉周作と国定忠治(または忠次、1810~1850)の対戦はのちに星一徹(推定1920~1978)によって星飛雄馬(1951~)につたえられた。
 『八州廻り桑山十兵衛』でも千葉周作が上州(群馬県か)に登場。
 1830年、清川八郎(または清河~、1863年没)が生まれた。
 千葉周作の弟子、千葉道場の門弟には赤胴鈴之助、弓栄高橋景保のむすめ)、平田深喜(ひらたみき、平手造酒=ひらてみき)、蝶々の朝吉(仕事人)、清川八郎がいる。この4名のうち、弓栄以外はみな、仕事人になった。

鼠小僧次郎吉
鼠小僧は冤罪だったか、処刑されずに生き残ったか
 1832年、鼠小僧次郎吉が処刑された。これは『必殺仕事人・激突!』によると、山田朝右衛門(または~浅右衛門)の元服あとの初仕事だったらしいが、泥棒自体が濡れ衣だった(『必殺シリーズ完全百科』によると、『激突!』の朝右衛門は山田家6代目当主という設定らしいが、Wikipediaによると6代目山田浅右衛門吉昌は1787年生まれで、次郎吉処刑当時は数え年46歳。7代目朝右衛門吉利は1813年生まれで、次郎吉処刑当時は数え年で20歳。7代目と解釋したほうが無難かも知れない)。
└→埋蔵金と義賊

 一方、『必殺からくり人』によると、からくり人が次郎吉を処刑寸前に救い出した模様。

 さらに、『八百八町夢日記』によると、北町奉行・榊原主計頭忠之(さかきばらかずへのかみただゆき→~かずえ~)は次郎吉を密かに助け、次郎吉は「三郎三(*さぶらうざ→さぶろうざ)」と改名し、忠之の隠密になったらしい。
 こうなると、山田朝右衛門が斬首した罪人は誰だったかが問題になる。

 また、もし、処刑された「鼠小僧」が替え玉なら、その恨みは誰が晴らしたのか。中村主水は無実の百姓が悪党の身代わりで斬首されたことから仕置人になり、朝右衛門も自分が処刑しているのが本当の罪人なのか悩んでいたらしい。いくら次郎吉が「義賊」とはいえ、替え玉が気の毒である。主水は牢屋見廻り同心だったとき、悪党の女の身代わりに捕まった無実の女を本物の悪党と入れ替えていた。

 角川『日本史事典』によると、榊原主計頭忠之が北町奉行だったのは1819年から1836年。吉川弘文館『國史大辭典』で調べると生没年は1766年から1837年。鼠小僧を捕縛、「処刑」したときの忠之は数え年67歳。それで「榊夢之介」と名乗って多数の犯罪者を一度に斬っていたのだから、すさまじい体力だ。奉行自身が隠密になるようでは、せっかく雇った次郎吉の仕事が余りなさそうであった。
 カネ目当ての住居侵入、殺人がなくならないのは、次郎吉のような犯罪者を英雄視する風潮のせいだろう。
 「国の言いなりにならない」という思想に固執する人たちがいる限り、喫煙や飲酒運轉、食品偽造、特定の農薬使用などをいくら国が禁止しても無駄であろう。

 『江戸を斬る』によると1840年以降も鼠小僧が江戸に出現しており、『名奉行遠山の金さんVS女ねずみ』によると、1845年以降には女鼠小僧が出現した。

 まとめると、1832年に榊原忠之が次郎吉を処刑したと見せかけて生かしたのが『八百八町夢日記』で、そこで生き延びた次郎吉が1840年年初めにも江戸に出現したのが『江戸を斬る』の天保編で、さらに1945年以降に次郎吉のむすめと思われる「女ねずみ」が江戸に出現しており、その状況を描いたのが『遠山の金さんVS女ねずみ』というわけだ。