綱吉の時代
赤穗浪士による犯罪「仇討ち」にあらず、憐みの令、各種解釋事件から306年新聞、雑誌など


霊媒師(スピリチュアル・カウンセラー?)の悪影響
また、是非はともかく、綱吉の時代は「生類憐みの令」(1685~1709)が出ていた時期である。今で言うスピリチュアル・カウンセラーのような僧侶が「上様に跡継ぎができないのは前世の殺生のせいだ」と言ったかららしい。スピリチュアル・カウンセラーとは法に触れない限りの霊感商法である。

犬の命を大事にしようという世の中で、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)のように切腹の刑に処されたのも人命尊重の意味では問題かも知れないが、それへの報復として集団で多数の人間を殺傷した赤穂浪士も同じ穴のムジナか、もっと悪質である。
犬の仇(あだ)討ちと称して人を殺傷した犯罪者と赤穗47士は同類である(もっともこの容疑者は『忠臣蔵』でなく『子連れ狼』をもとに復讐を想いついたと述べている)。

確か、TBSの『水戸黄門』では光圀が綱吉に犬の皮を多数献上して諭(さと)したように想うが、実際は「憐みの令」は綱吉の死まで、つまり、光圀の死後も9年ほど続いた。
人を犠牲にして犬の命を大事にしていたときに、日本人全体が赤穗の人殺し集団を英雄視していたのだから、「憐みの令」が言語道断だったか、当時の日本人がそこまで命を粗末にしていたか、どちらかだろう。この風潮は、道連れ自殺を口実にした殺人を「無理心中」という異様なことばで正当化する日本人の国民性をもたらし、沖縄の集団自決も「無理心中」と認識されるに至った。

また、綱吉の時代から400年経過した今の日本でも、相変わらず、占い師や霊媒師が人気である。
犯罪者に対する非公式な処罰、非合法な復讐をもてはやす風土は、のちの「義賊」と称される盗賊、さらに町方同心が殺し屋グループに参加して復讐の代行業をするところに發展することになる。博打はご法度といわれながら、江戸時代中期以降は御三家の藩主、町奉行、さらに同心も賭場で博打をするようになる。

憐みの令について、Wikipediaでは「僧の意見によるもの」との定説に疑問があるという説(新説?)も紹介しているが、ここでは真相が何であるかということでなく、時代劇などの物語の中でどう描かれたかを考えているので、定説にしたがった。
Wikipediaの記述が真相だと想って引用しても、それが虚偽である可能性もある。
ネット上で歌手や漫画の説明を探すと、Wikipediaのコピーばかりが目立ち、Wikipediaからの丸写しのつぎはぎでは藝がない。