綱吉の時代
赤穗浪士による犯罪、「仇討ち」にあらず、憐みの令各種解釋事件から306年新聞、雑誌など


 江戸時代には「敵(かたき)討ち」、「仇(あだ)討ち」が認められていたが、赤穗浪士がやった吉良殺害事件は「仇討ち」にも入らない。仇討ちとは「加害者」が「被害者」を殺し、「被害者の縁者」が「加害者」の命を狙うものだ。もし、打ち入りを「仇討ち」と見なすのなら、討ち入りの前に何らかの「事件」があり、そこで吉良上野介が「加害者」、大石の主であった浅野内匠頭が「被害者」だったはずで、それで大石が「被害者の縁者」であるという図式があり、それを前提にして多くの人々は討ち入りを「仇討ち」と認識しているのだろう。しかし、吉良上野介は浅野内匠頭を殺してはいない。したがって、吉良を「加害者」とする「事件」が一つも存在しない。「仇討ち」の前提が成立しないのである。
 おそらく大石が吉良を恨む理由は「殿中松の廊下における刃傷」である。
 この松の廊下での事件では、浅野内匠頭が吉良上野介を斬殺しようとしたのであり、浅野は吉良の背中と額を斬って、吉良に傷を負わせ、浅野内匠頭は切腹処分になっている。松の廊下の殺人未遂事件では浅野内匠頭が「加害者」であり、吉良上野介が「被害者」である。そして、大石らが吉良の家を襲った「討ち入り」では、大石ら赤穗浪士が「加害者」で、吉良上野介が2度目の「被害者」である。

大石は綱吉を討ってこそ「仇討ち」
 つまり、「忠臣蔵」とは浅野内匠頭と大石内蔵助という主從が、吉良上野介という同じ標的を殺害しようとした、連続犯罪である。浅野内匠頭の切腹を「浅野が受けた被害」とすれば、浅野を「殺した」のは吉良上野介ではなく、浅野に切腹を命じた将軍・徳川綱吉である。直接的には浅野の切腹のときの介錯人だが、介錯人を恨む者はいないだろう。
 したがって、もし、大石内蔵助らが「亡君・浅野内匠頭の仇討ち」を主張するのなら、徳川綱吉を討つべきであった。

 また、浅野を「被害者」、吉良を「加害者」とした場合、浅野が吉良から受けた「被害」なるものは「陰湿ないじめ」だけである。「吉良邸討ち入り」は「刃傷松の廊下」と同様、浅野が受けた「いじめ」への報復である。
 したがって、大石らが仇討ちの免状などもらえなかった(おそらく)のは当然で、仇討ちOKの江戸時代でも、赤穗浪士一味47人の所業はただの違法な殺人である。大石主從への切腹処分は当然であった。むしろ、吉良の縁者が大石内蔵助らを「かたき」として狙うことは、理論上、可能であった。「仇討ちの仇討ち」は認められなかったが、大石ら一味による吉良義央殺害事件は「仇討ち」ではないから、吉良の死後、吉良家の関係者が大石らを殺そうとしたら、それは立派な仇討ちであった。だが、結局、大石ら一味を処罰することは幕府によっておこなわれた。

 討ち入りに参加する予定で、しなかった毛利小平太については、家族(毛利源左衛門か)から止められたとか、敵と戦って死んだとか、時代劇によっていろいろな解釋がある。
日本の一般庶民が大石らの犯罪行為に拍手を送るところを見ると、日本人はいじめられたと想ったら相手を殺す国民性を持っているのだろう。しかも、大石らは吉良の生首を袋に入れ、棒の先に結び付けて「凱旋」したのだから、日本人は野蛮な首狩り族だと想われても仕方があるまい。

日本で死刑を廃止したら仇討ち復活
 呉智英(くれともふさ)氏は「死刑を廃止して仇討ちを復活させるべし」と言っている。光市母子殺害事件の被害者の遺族は、「犯人が死刑にならなかったら、私が復讐する」と述べている。つまり、死刑制度がなくなったら、形はどうあれ、仇討ち、報復が横行するだろう。この場合、仇討ちを合法化するかどうかは、重要ではない。赤穗浪士が吉良上野介を殺害した犯罪行為は違法であったが、日本の大衆はこれを強引に「仇討ち」にして讃美している。

 つまり、日本人は「仇討ちなら人を殺していい」と考えている恐ろしい国民だということだ。国連總会が日本の死刑制度を批判しているが、国連とは連合国であり、そもそも、東京裁判で日本の軍人、幹部を処刑した勢力である。死刑制度廃止論者は、廃止したあとの報復の繰り返しを想定していない。日本のマスコミも光市の事件では死刑を求める遺族を好意的に取り上げ、死刑制度については死刑廃止論を好意的に扱う二枚舌が多いように見える。いわゆる「学級会民主主義」というものだろう。

 また、是非はともかく、綱吉の時代は「生類憐みの令」(1685~1709)が出ていた時期である。
人を犠牲にして犬の命を大事にしていたときに、日本人全体が赤穗の人殺し集団を英雄視していたのだから、「憐みの令」が言語道断だったか、当時の日本人がそこまで命を粗末にしていたか、どちらかだろう。
└→霊媒師(スピリチュアル・カウンセラー?)の悪影響

 あの『四谷怪談』も元禄時代を舞台にしている(『忠臣蔵外伝・四谷怪談』)。歌舞伎狂言「東海道四谷怪談」の初演は1825年(文政8年)江戸中村座。
 『刺客請負人』も吉良邸討ち入りのころの話。

江戸時代には敵討ちは合法はだったが、「忠臣蔵」で浅野内匠頭の家臣 赤穂浪士 47名が徒党を組んで吉良邸に討ち入ったテロ行為は敵討ちではない。なぜなら吉良上野介は浅野内匠頭を殺してはいない。
19:31 - 2013年12月14日
#忠臣蔵
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