綱吉の時代
赤穗浪士による犯罪、「仇討ち」にあらず憐みの令各種解釋事件から306年新聞、雑誌など


 将軍家や権力者による非公式の調査、越権行為だけでなく、元禄時代は非合法の復讐を正当化する土壌が形成された時代でもあった。
 各種『忠臣蔵』で描かれる話は以下のようなものだ。主な登場人物は以下の三名。

 浅野内匠頭(あさのたくみのかみ、1667~1701)=浅野長矩(~ながより)
 吉良上野介(きらかうづけのすけ→~こうずけ~、1641~1702)=吉良義央(~よしなか←ネットで「~よしひさ」もあり)
 大石内蔵助(おほいしくらのすけ→おおいし~、1659~1703)=大石良雄(おほいしよしを)

 なお、生没年などは、陰暦と陽暦の違いなどにより、資料(史料)によって前後1年の違いがある。
 例えば、吉良上野介義央の没年は1702年または1703年。
 のちの平賀源内の没年は1779年または1780年。
 西郷隆盛が生まれた年は1727年または1728年。

今も昔も法廷は嘘も真も区別なし
 浅野内匠頭は殿中で無抵抗な吉良上野介に斬りつけた。
 刃傷沙汰の直後、浅野内匠頭は目付の多門傳八郎(傳≠傅、おかどでんぱちらう→~ろう→「おおかど」でなく「おかど」らしい)から取調べを受けた。多門は「乱心ということにしておけば罰も少なくてすむ」という理由で、浅野に「乱心でござろうな」と確認したが、浅野内匠頭はその情けに感謝しながらも「乱心ではない」と主張。
 これは今の裁判制度で、殺人犯の辯護(辯≠弁)をする辯護士が「精神が異常だったから責任能力がない」として罪を軽減しようとする工作に似ている。今の被告人は何でも辯護士の言いなりで、浅野内匠頭のように処刑覚悟で信念をはっきり言うものは少ない。それはオウムの麻原も同じだ。法廷というのは「人殺しをしてはいけない」という道徳も忘れ去られ、「責任能力」という詭辯と論点のすり替えで、殺人を正当化する茶番劇の舞台と化している。
 裁判というものの奇妙さについては、ジョナサン・スイフト(Jonathan Swift、1667~1745)が『ガリヴァー旅行記(Gulliver's Travels)』(1726)で痛烈に指摘している。

 当時の法にもとづいて、浅野は切腹処分となった。テレビでは徳川綱吉の判断での浅野切腹ということである。これに不満を持った大石内蔵助を初めとする赤穗浪士47人(46人との説も)が浅野切腹の次の年、深夜から明け方にかけて吉良邸に侵入、住民を多数、殺傷し、最後に無抵抗な吉良を引きずり出し、首を切断して、道を行進した。狂気の大量殺人事件である。
 言わば、地方自治体の長・浅野長矩が、皇居(江戸城)で皇室を招くパーティの責任者となったが、職場で上司・吉良義央に刃物で切りつけたという殺人未遂事件である。そして、浅野長矩〝容疑者〟は死刑となり、浅野の部下・大石良雄以下47名がこの判定に不満を持ち、次の年の冬の夜間に吉良の自宅に侵入、住民を刃物で多数殺傷、最後は大石良雄のグループが吉良義央の首を切断して逃走したという事件である。
 大石内蔵助は冬の夜中に人家の前で太鼓をたたき、騒動を起こしていた。これだけで今なら犯罪であろう。
└→朝日新聞「天声人語」における『忠臣蔵』