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江戸時代綜合琉球小次郎と武蔵、大坂夏の陣、家光家綱綱吉


アントワネットより前の瞬時白髪
 『真田太平記』によると、徳川秀忠が将軍を継いだあとの戦で、忍者が刺客となって大御所・家康を狙うが、徳川の家臣が家康を守り、空中で刺客と差し違え絶命。そばにいた仲間が、恨みをこめて死んだ敵を痛めつけている間に白髪となった。
 演じた俳優の記憶からネットで検索すると、白髪になった側は「山中大和守俊房」だった。
Y!Japan 真田太平記 白髪

 この「瞬時の白髪」は、1793年にマリー・アントワネット(Marie Antoinette、1755~1793)も経験し、およそ、1973年ごろのボクシング界で矢吹丈と戦ったホセ・メンドーサ(Jose Mendoza、綴りは推測)、さらに西暦199X年以降には南斗水鳥拳のレイにも起きた現象である。資料は言うまでもなく、『ベルサイユのばら』『あしたのジョー』『北斗の拳』である。

 1615年、大坂夏の陣で真田幸村の一子・真田大助(幸昌=ゆきまさ)が豊臣秀頼に出陣を要請したが、淀殿によって拒否された。
 余談だが、淀殿こと茶々は「待ちゃ」が口癖だったような気がする。

 豊臣家の家臣・大野治長(おほのはるなが→おおの~)が独断で千姫を家康のもとに送るが、停戦は認められず。真田大助は大野から脱出を薦められるが拒否。秀頼が大助に謝罪。真田の息子は大阪城で豊臣家と運命をともにする。真田幸村(真田信繁、源二郎、作品で左衛門之助とも)が自決(『真田太平記』)。
 豊臣家と真田家の関係者は家康を戦争犯罪者として告訴しないのだろうか。
 豊臣側の集団自決で軍が関与した強制に関しても、沖縄戦と同様、考えてみるべきではないだろうか。「当時はそういう時代で、今の価値観で云々するのは間違い」という反論がありうるなら、大東亜戦争も西南戦争も壇ノ浦の合戦も同じことだ。

 大坂夏の陣で火事場泥棒のようなことをした武士がいたらしく、19年後に徳川家光またはその一派によって斬殺されたらしい(『将軍家光忍び旅』)。


1615年ごろ、豊臣秀頼の息女(千代姫、奈阿姫、天秀尼、1609~1645年)が鎌倉の東慶寺に預けられた。
『BAR来夢来人』によると、このころ、沙羅が東慶寺を始めて訪れた模様(6巻・第44夜「定家葛=ていかかずら」)。

2009年の大河ドラマ『天地人』では、夏の陣のとき、直江兼続が千姫を救い出したことになっている。大坂城が焼け落ちたあと、兼続が井戸の中から千姫を救出したようである。
『真田太平記』では大坂城落城前に千姫が家康のもとに届けられており、豊臣の家臣が独断で千姫を家康のもとに帰し、千姫が家康に淀と秀頼の助命嘆願を依頼したはずだったたが、千姫について新説が出たのか?

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08年9/13