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69年初めキャンプ、大リーグボール1号復活前後、第116話「不安の中の四連勝」


1969年・宮崎キャンプ

アニメ『巨人の星』で中尾二軍監督が語った東映の選手
『巨人の星』110話「燃える千本投球」で中尾二軍監督が星飛雄馬と伴宙太に「東急フライヤーズのなかはらこうたろう」という投手の話をした。

Wikipedia の北海道日本ハムファイターズで歴代チーム名を調べるとこうなる。
東急フライヤーズ(1949年 - 1953年)
東映フライヤーズ(1954年 - 1972年)

調べてみると元東映フライヤーズ(日ハム)の選手では中原勇と中原朝日(~のぼる)が投手で、中原全敏は野手。
台詞を聴くと「東急フライヤーズ」にも聴こえる。

「なかはらこうたろう」はスランプで二軍に落ち、急に猛練習をしたが、一軍に上がったときに打ち込まれ2イニングで降板。
2年で引退したらしい。星飛雄馬は3年で左腕を破壊して引退し、5年間雲隠れしたから似たようなものである。

第110話「燃える千本投球」によると中原は背番号7の左投手で、星飛雄馬が小学1年生くらいのとき人気の的だったらしい。
すると1958年ごろに人気だったことになる。

星飛雄馬の台詞によると「中原」は背番号7のサウスポーで、飛雄馬が小学1年生くらいのときに人気だったらしい。これは1958年に相当し、飛雄馬が長嶋に向かって魔送球を投げた年だ。
しかし長嶋入団当時の飛雄馬は小学4年生か5年生くらいに描かれていた。ここで矛盾が生じる。

大リーグボール1号復活
星飛雄馬はアトムズとの二軍戦で大リーグボール1号を復活させた。川上監督と藤田元司コーチがスタンドで観戦していた。アニメではこの1号復活までの苦悩が長く描かれていた。

第114話「見えないスイング」ではテレビのアナウンサーまたはキャスターが星飛雄馬について「この弱冠18歳の若武者に今後の活躍を期待したいと思います」と語っていた。
第99話「運命の出合」で日高美奈と出会ったときの飛雄馬は17歳だったので、飛雄馬の18歳の誕生日は1969年春から夏まで。飛雄馬は1951年生まれになる。

見えないスイング
オズマの見えないスイングによるホームランの被害者第1号は城之内邦雄であった。
1969年の前半戦、中日のオズマに対し勝負し、オズマとは2度対戦している。
親戚の城之内早苗は1968年生まれで、城之内投手がオズマと対戦した年には1歳だったことになる。

左腕投手時代の星飛雄馬はホームランを1本打たれただけで戦意喪失したが、少なくとも城之内投手は飛雄馬よりは精神力が強かった。

金田正一はオズマに対し、スローボールを投げたが、結果はやはり本塁打。
オズマの見えないスイングはボールが本塁上に来てからスイングを始めても間に合うようにするためのもので、それはボールが本塁上に来てからでは普通のスイングでは振り遅れることが前提であった。

しかし、1969年秋に星飛雄馬が大リーグボール2号を編み出すとその前提は崩れる。
1970年になってから左門が消える魔球を打つために考えた打法はボールが来る前に何回もスイングするもので、ボールが本塁近くに来てからミートする作戦だったと思われる。
さらに開幕後、伴と花形が、そして1970年の球宴で野村、アルトマンが2号を打った打法は、いずれもボールが本塁の近くや本塁上に来てからスイングを始めるものだった。

中尾監督の言った「なかはら(中原?)」は架空の選手だろう。
星飛雄馬は中尾監督や川上監督から何を言われても一徹からの教育を優先。これだから「野球ロボット」「野球人形」と言われたのである。

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2008年9/11前後 9/12