2008年――『1リットルの涙』

医者、病院が第一に助けるべきなのは妊婦と乳幼児、子供の命である
病院による患者のたらい回し()、受け入れ拒否問題について。
妊婦たらい回しにより、赤ん坊が生まれて妊婦が死亡、あるいは妊婦が助かっても死産という例が多い。医療とは本来、こういう妊婦や赤ん坊の命を最優先にして助けるシステムを作っておくべきである。
もし、私が老人になって、病気になっても病院には行かないようにしたい。「満床で受け入れ拒否」という悲劇を防ぐには、もっとほかの人にベッドを与えるべきだ。

もし、私が病院に入院したら、その病院が満床になっていないか、常に気にするだろうし、急患の際には自分は廊下で寝て、自分の使っていた病室をその急患のために使ってもらいたいものだ。

高齢者が亡くなった場合、直接の死因が「心不全」だろうと「癌」だろうと、世間的には「寿命」と見なされる。我々はいつかは死ぬということと、無医村だけでなく、医者がたくさんいる地域でも自分が治療を受けられるとは限らないという覚悟をしておくべきであろう。
病院や医科の閉鎖が多いのは、今や、病院が高齢者介護施設、老人ホームの代わりとなっていて、老人の延命治療のために医者の時間とベッドと薬が使われている部分が大きい。

急患の受け入れを断る病院は「うちでは無理でも、こことここの病院なら、今、ベッドが空いていて專門医がいますよ」という助言をしようとしないのだろう。そういうネットワークもできていない。「私の管轄ではない」という逃げは「官僚答辯」と言われるが、官僚だけの專賣特許ではない。医療が市場経済と個人主義と民主主義に汚染され、医者も自分の人権ばかりを考えるようになっており、社会全体で病人全体をどれだけ救うかを何も考えない。
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2008年10/24

『朝ズバッ!』を観ていたら、青森や名古屋などの病院で、満床でも患者を受け入れ、またはどこの病院がいいか患者に教えるような努力をしているところがあるという。東京の病院は満床を言いわけに拒否するだけで、どこなら受け入れてくれるか情報も提供しない。東京には本物の医者がいないのであろう。
2016年はマドリードかシカゴかリオデジャネイロか東京で夏季五輪が開催される年でもある。すでに新聞の投書欄で「妊婦の命を救えない東京都で五輪など開催するのは間違いだ」という意見が出ている。東京都政府は誘致に莫大な予算を使いながら医療費を削っているということだ。
2008年10月28日

消防と別の救急車を設置せよ
病院によるたらい回しは、当事者が「二度と起きないよう」と言ったそばから二度も、三度も、四度も起きている。
朝日新聞の投書欄で、「アメリカの病院は拒否しなかった」という投書があった。その投稿者によると、アメリカでは満床でもとにかく患者を受け入れ、その結果、患者と同伴者は病院で待たされたが、別の患者を扱っていた医者がやってきて対処してくれたらしい。「対応できない」は怠慢の言いわけである。「できる、できない」でなく、「やる、やらない」の問題。「受け入れ拒否は医者のモラルの問題」と發言した人が抗議されて撤回したが、「医者のモラル」が原因という意見は、必ずしも完全に間違いとは言えない。

救急車が消防の管轄になっているのが問題である。消防署の救急車のほかに、病院搬送專門の救急車を国(=国民)か自治体(=県民または市民など)が設けるべきだ。救急車が出動してから病院を探すなど遅すぎる。どこの病院の何科でもベッドがいくつ空いているか、常に把握できる状態にして、その上で通報を受けた隊員と医者が救急車で出動するシステムにすべきである。
2008年11月14日、13:14