京都の紅葉【天授庵・金地院・ねじりまんぽ】 | 京一花日記帳

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寒い~…。今日の朝は、この秋はじめて、息が白くなりました。

朝起きるのがつらいですが、早くきれいな紅葉を見たいし、複雑な気持ちです(笑)


昨日の続きです。

【天授庵(南禅寺塔頭)】



枯山水の前庭が見事な美しさで、みんなで息をのみました。







鯉がたくさんいて、みんな口をパクパクさせている。何か言いたそう。

またこちらでは歴史の先生に、明治維新の十傑のお一人・横井小楠氏とそのご家族のお墓をご案内いただきまして、手を合わせました。

<横井小楠氏>
肥後藩士。越前藩に招かれて松平春嶽氏に仕え、藩政改革に尽力。坂本龍馬氏が尊敬する人物のお一人。明治維新後、国務大臣になられるが、明治2年に京都にて攘夷派浪士に暗殺された。


【金地院(南禅寺塔頭)】



「ムラサキシキブ」 紫色の小さな実が、何つぶかでまとまりながらびっしりとついている。かわいい♪



ここ金地院は、もともと北山にあったものを、徳川幕府を開いた徳川家康公が信頼を置いた側近、以心崇伝(いしんすうでん)氏がここに移して、南禅寺塔頭としました。

嵩伝氏は、僧でありながら俗世間の幕政に大きくかかわる「黒衣の宰相(こくえのさいしょう)」と呼ばれ、畏怖尊敬を一身に集めた名僧でいらっしゃったそうです。

嵩伝氏もここ金地院に眠っておられます。

入ってすぐあるのが、「明智門」



天正10年(1582年)、明智光秀氏が母の菩提のために大徳寺(京都市北区)に建てたものを、明治時代にこちらに移したのだそう。

そして、こちらが・・・

「東照宮」 (徳川家康氏を祀る神社)



嵩伝氏が、家康公の命で遺髪と念持仏を祀って、寛永5年(1628年)につくられた。創建当初は日光東照宮と比すべきものであったそう。重要文化財。



いたるところに葵の紋が。



ここには、戊辰戦争の東軍の戦死者を慰霊する、 「戊辰伏見鳥羽之役 東軍戦死人追悼碑」があるそうで、

先生と探したのですが、見つけることができませんでした…。




掃き集められていた、色とりどりの葉っぱたち。




「方丈」(寺院の住職が生活する建物)の縁側に座って、「鶴亀の庭園」を眺めます。

気持ち良くて、いつの間にか眠ってしまいました… 一緒にいたみなさまごめんなさい…



↑亀さま ・・・上のどこかにいらっしゃいますが、おわかりでしょうか。

↓鶴さま ・・・木の茂るようすが羽、長く伸びる石が首だそう。よく見たら、先がくちばし状に!



撮影禁止で写真に撮れませんでしたが、方丈の正面には、「布金道場」と大きく書かれた大きな額がありました。(明治初期の「廃仏毀釈」から守るため、ここは仏教寺院ではなく道場である!と書いたのだそう。)

なんと山岡鉄舟氏の書だそうです。

<山岡鉄舟氏>
幕末の徳川幕府幕臣。剣・禅・書の達人と言われる。
勝海舟氏と西郷隆盛氏の会談の場をつくり、江戸城の無血開城を実現させた裏の功績者。


さて、改めて外に出ると、東照宮のための門が別に作られておりました。



立派ですね…キラキラ 閉じられていて、こちらからは入れないようになっていました。残念…


最後に、【ねじりまんぽ】



煉瓦がらせん状に組まれた、ねじれた「まんぽ」。(まんぽとは、トンネルのことを指す方言だそう)

線路とトンネルが一定以上の角度で交差する場合、負荷を軽減してトンネルの強度を増すためにとられたつくり方なのだそうです!

このねじりまんぽの上は、インクラインが通っています。



こちら側には「雄観奇想」(素晴らしい眺めとすぐれた考え)、

反対側には「陽気発処」(前向きな心は相手の堅い心も開けることができる。精神を集中すれば何事も成し遂げられる、の意の冒頭)

どちらも漢詩の一節で、当時の京都府三代知事・北垣国道氏の書だそうです。

その北垣知事こそ、明治になり衰退していく京都市の産業を復興させるために、伊藤博文氏や三条実美氏ら政府の要人と協力して「琵琶湖疏水計画」と、それに必要な水力発電所建設(日本初)を実現させた知事でした。

完成した琵琶湖疏水にむけて書かれたこの書には、北垣氏の想いが込められているのですね…。


長々とお付き合いいただき、ありがとうございました星