真冬の嵐山遠足(後篇) | 京一花日記帳

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真冬の嵐山遠足(後篇)です。


お昼ご飯ののち、向かったのがこちらです。




先週の節分お化けに引き続きの、天龍寺。

天龍寺は、幕末、禁門の変において、長州藩 来島又兵衛氏らが陣を張った場所です。


*禁門の変 (蛤御門の変) 1864年*

前年1863年、会津藩・薩摩藩らによる「八月十八日の政変」で京都を追われた長州藩が、

なかなか攘夷を実行できない幕府に見切りをつけ、

また直前の6月、新選組による「池田屋事件」で幕府側に藩士を殺害されたことも火種となって、

長州藩の冤罪(御所に弓を引いたこと)を天皇に赦してもらうという大義を掲げて挙兵し上洛したが、

会津藩を擁護し長州征伐を求める孝明天皇のもと、会津・薩摩藩らの反撃を受け、敗北した事件。


しかし。この日の目的は、天龍寺塔頭である、松厳寺(しょうげんじ)でした。
天龍寺七福神の一つである、福禄寿がまつられていることで有名ですが、
こちらに、坂本龍馬氏の銅像があることを、みなさんご存知でしょうか。

松厳寺




龍馬さんの銅像は、門を左に進んだ奥にあります。

普段は非公開なのですが、なんと、入れていただくことができました。ありがとうございました(ノ_-。)




こちらが、その龍馬さんです!あなたに会いにきたのです。




写真で見る龍馬さんに、ここまで似た銅像を見るのは初めてです。懐に手を入れていない、珍しい龍馬さんです。

「船中八策宣言碑」



↑筆に硯、墨まであるという素晴らしいつくり


「船中八策」とは、1867年(慶応3年)6月9日、長崎から京都へ向かう藩船「夕顔丸」の船中で、龍馬さんが、一緒にいた後藤象二郎氏(土佐藩参政)に示した、新しい国家思想です。

同じく一緒にいた、海援隊書司・長岡謙吉氏がそれを書き留め、文章化したと言われています。


*船中八策の原文*

一策 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
二策 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
三策 有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ、官ヲ除クベキ事
四策 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
五策 古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事
六策 海軍宜シク拡張スベキ事
七策 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守護セシムベキ事
八策 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事


これが、幕府の終わりとなる、大政奉還のもととなりました。

大政奉還に始まるこの新国家思想は、明治の五箇条の御誓文にもつながる画期的な内容でした。

これに薩摩藩も同調し、同年6月22日、それを示す「薩土盟約」が締結されます。

ただし、薩摩藩が大政奉還論に同意したのは、慶喜公が大政奉還を拒否することを見越し、これを討幕の大義名分にするためであったと言われています。

そのため、盟約には土佐藩の上京出兵、将軍職の廃止を建白書に明記すること、がありました。


しかし、これに土佐藩前藩主・山内容堂公は反対し、結局薩土盟約は解消、土佐藩は上の二つを削除した上で、単独で、徳川慶喜公へ大政奉還建白書を提出したのです。


しかし、なぜこのような立派な銅像と碑が、ここにあるのでしょうか…?




こちらには、理由として読めるのは「坂本龍馬先生の功績を日本人の誇りとして天下の景勝嵐山の邊りに天龍寺内松厳寺境内に伝へるべく遺徳の銅像をここに建立する」との部分のみで、坂本龍馬会 会長さまの名がそれに続いています。

一説には、禁門の変の前夜、長州と会合を持つために龍馬さんがここ天龍寺を訪れたといいますが、それが由来しての、この地なのでしょうか?

ご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただきたいです。



この後、仁和寺などを散策して、四条河原町へ戻ってきました。

河原町では、疲れきったみんなを引き連れて(笑)こちらへ…




河原町通沿いにある、「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」

龍馬さんは、三条河原町近くの材木屋酢屋を京都の拠点としていましたが、慶応3年(1867年)10月頃より、こちらにあった醤油屋近江屋へ移り住みました。

しかし、それから約一ヶ月後、共にいた中岡慎太郎氏とともに暗殺されました…



今回一緒に行った友達は、みんな大阪に住んでおり、 「やっぱり京都は見どころ満載やなあ…」と言ってくれました。

一日遠足しても、まだまだ時間は足りませんね。

寒かったですが、とても充実した真冬の遠足でした。みんなありがとうー!