様々な本を、読めば読むほどわからなくなるものがある。



恋だ。



本の中の恋というものは、狂気じみたものが多く感じられる。



恋に狂ってしまった人間の方が、よりドラマチックに話が展開できる

のだから、至極当然なのだろうが。



最近そのような本を読む回数が増えた。



何故かと言えば、私の周りに恋が多く存在するようになって
きたからだ。


特に、恋に思い悩む若者が増えてきた。



2・3分に1回はため息を吐き、その悩みを鬱々と話始めるのである。


溜息を聞けば聞くほど、こちらの気分も鬱蒼とし、苛々とした
負の感情が募ってくる。


「もうやめてくれ。」とさえ言いたくなる。



しかし、当の本人はそんなことはお構い無しだ。


彼らはもう文字通り恋に狂っており、自分の気持ちが楽になれば
後はどうでも良いのであろう。



正直に言えば、私にはよくその気持ちがわからないのである。


今現在の年になるまで、私には恋愛経験が無い。



そのように煩わしい感情には、できるだけ関わりたくない
というのが本音である。



心理学的に、人間は肉体的安全より精神的安全を望むらしい。


その通りだ。


私は心の平穏を望む。


そんなに思い悩むのなら、やめてしまえば良いでなないかと
ある人物に言った。


「そんなに簡単にやめられるものなら、こんなに思い悩んで
 いない。」



成る程、その通りである。


なんて煩わしいのか。



このように思い悩むからこそ世界がなかなか平和にならないのか、

はたまた、このように思い悩めることこそが世界が平和である証なのか。




いつまでたっても、分かりそうにない。





「私が死んでも世界は廻る」ということは証明可能であろうか.


(ここでいう「私」とは,問題を提示される個人のことである.)




「私」は「私」が死んだ時点で世界が廻り得るのかを知る

ことは不可能であり,自らの死とともにその世界は終わる。


つまり、その個人においてはこの命題は証明することが不可能

であるといえる.



しかし,実際にはその様に考える人はなかなかいないであろう.


何故なら,


1.世界が個人の死によって止まったことなど歴史上存在せず,


2.世界がある個人の死によっていちいち止まっていては敵わない,


3.自らの死によってそのような悲劇など起こり得ない


ということを理解しているからである.



ただし,それらのような前提条件があるにせよ,

「私が死んでも世界は廻る」ことの「私」自身による証明は

あくまで不可能である.


そして,その事実は自身に安堵を与えるのだ.



自らが死んだ後の世界のことなど,考えたくないからなのだろうか.


ひとりで死んでいくのは寂しいからなのだろうか.


自分は特別でありたいと思っているからなのだろうか.


守るものができれば,この考え方も変わるのだろうか.




このように,この命題の証明の可否は,様々な矛盾をはらむ.

理論においても.意識においても.



私はこのような矛盾が,好きであり嫌いである.

そのような曖昧な自身も,嫌いであり好きである.



こんな無意味な問い掛けについて書いて,この後

自分がどうしたいのか良くは分からないが,


読み返してみた時にもっと自分の本心を知ることができればと

思う.