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使命を嗅ぎ分ける

色んな事のあった一週間でコメントも投稿も遅れてしまい、
ましました~。。

ふぅ~ 笑。
今日は、コメントをくださったある方にコメント返ししている内に、

はまって長文になってしまいましたので、

これをそのまま投稿させて頂こうと思います。


「結果が同じなら、不安を持たない方がいいに決まっている」
という、ある方の一文から色々と考えました。
そう。。不安を持っても意味がないと思います。
昔、精神世界の本をたくさん読んだり、
その世界の友達がたくさんできてったりしました。
感情を感じきった後、
その感情に一旦距離をおいて客観的にみつめ直す事、
日々起きる事を象徴的に見つめるやり方に感銘を受けました。
そして私もそうありたいと思い、実践し続けました。

でもそれを続けていくと、私には、
人生が物足りなく思えてきました。

というのも、
精神世界の事をただの宗教の一種としか認識していない彼氏や、
昔からの周りの友達は、
感情にとらわれてやはり人生に悩み苦しんでました。
いまやそこから抜け出せる一つの方法を見つけた私としては、
少しでもきっかけになればと、
気づきを得られた仏教関連の本や、
精神世界の本を薦めました。
一時的に救いにはなるみたいでしたが、
現実に向かい始めるとやはり抜け出せないんですよね。。
中毒のように。


わが身に降りかかる出来事を、
客観的に見れるようになる精神の持ち方って、
ある程度人生を達観できるようになれた方なら、

頭で考えなくても、すとんと落ちて理解できるんだと思うんですね。
でも、本で読んだくらいじゃ、人に言われたくらいじゃ、
人は不安から手を離したがらない。
新しく得た視点を、
自分の人生にすぐさま応用しようとはしない。。
結果が同じなら不安にならなくてもいいのに、
不安という感情体験をしたいみたいです。。


そんな中、毎日をほんと生き生きと生きて、
希望に溢れてヒーリングの仕事をしてる友達を見てると、
今度は私が腑に落ちなくなってきました。
彼女は「自分も昔はそうだった。
でも、人は幸せになる為に生まれてきたって事に気がついてからは、

それを少しでも多くの人に伝えるのが自分の使命だと思う」と言ってて、

旦那さんと一緒にヒーラーとして、

彼女なりの方法でたくさんの人を癒しています。

そこには嘘も虚勢もなく、シンプルでとても温かいものを感じます。
本当に天命なんだろうなと思えて。


しかし私が私の生き方としてみようかと思うと、
俄然、腑に落ちない。。。笑。
最高の生き方だなって思うのに、
自分がそういう風に生きれないのは何故か。
腑に落ちないのは何故か。
私が使命を感じて取り組める事とはなんだろう。。


私はもっと泥くさく、
人の感情のどさくさに巻き込まれる場所で、
関わる人と同じ場所から先を見ていたい。
関わる人が先に進んでいけるまで、そこに居たい。
精神の探求ができなくて四苦八苦してる人の側に居て、
自分も泥にまみれながら、
ぶつぶつ言いながら進んでいきたい 笑。


ヒーリングをしてもらって、気づきのきっかけになる事を言われても、

結局ヒーラーには距離しか感じません。

ヒーラーはそこをもう通り過ぎてしまったと、余裕で微笑んでいるのですから。

私が私自身に出家を許せない理由には、
そういう気持ちがあるからなのか。。。
そうだったのか、あたし・・ 笑
(なーんて・・なんとなく気がついてはいましたが 笑)
仏教の憐れみの精神に私が惹かれるのは、
そういう理由からなのかも、です。

チベット政府の亡命という困難に反応し、
なにかしら携わりたいと思っているのも、
自分の使命としたい事の「象徴」に思えました。

怒りという感情にやられた日

「なぜ人は破壊的感情を持つのか」 著・ダライラマ
                   ダニエル・ゴールマン


昨日パラパラとこの本をめくりました。
頭に血が上りプチ切れてしまった事を、
後悔している自分がいました。。


はぁ。。
「例え何があろうと感情的に切れたりしちゃ駄目」だと思い、
こんなにも罪悪感を感じている自分を目の当たりにし、
途方にくれて、職場仲間や友達に電話をしていたのでした。
夜中の三時まで・・


片思いの彼に「怒ってもいいんですよ」と言われて、
なんで自分が怒る事に対して、

こんなに罪悪感を感じてるんだろうかと思いました。
結論から言って、

今は問題を解決する方針を自分の中に立てられたので、
大分晴れやかな気分です。

少し熟してから、また改めて書いてみようと思います・・


メールのない日

あなたからメールのない日

ほぼ毎日メールをしているから、

いつもの私なら少し不安になるはずが・・ならない

写真屋さんに勤めてる友達と

もう何度目になるかわからない

「鹿」の写真を撮りに行くと昨日言ってたから 笑


・・ふと思った

「イメージの中で生きてる私達」


会えない日の見えないあなたの一日を

私はわずかな情報から想像する事しかできない

本当は 私の知りもしない女の子と居るかもしれないし

ハプニングに巻き込まれどこかに監禁されてるかもしれない

今まで付き合ってきた人に飛躍的な嘘をつかれてきたので

色んな事を考える;


あなたと私はつきあっているわけでもないし

あなたが何をしていようと

咎める権利も知る権利も堂々と主張できない 

互いに「彼氏・彼女」という名前をつけて付き合ってるとしたって

疑い、問い詰めたりする恋愛はしたくない

人を疑い尽くす精魂は使い果たしてしまった・・


厳密に言うと「人は必ず嘘をつく」

昨日まで身にまとっていた己の信念を 覆す様な事が

今日の自分に起き、そしてそれを必要と思うのならば

速やかに変化すべき


そう思うと「人を 信じる」という言葉の組み合わせは妥当じゃない

嘘とは呼べない微妙な嘘をつく嘘つき名人の元彼は

「信じるという字は、人が言う、と書く。

俺の言う事を信じて」と熱く語っていた・・

あほくさ。。そういいながら嘘をついていた

そう言ったらきっとかちんとくるんだろうなぁ;

「あれのどこが嘘なんだ」って

言葉あそびにつきあう気ももうないけど。。


人は信じる対象ではない

人は自由にさせてあげるもの

人は自由に流れ 変化し 進化していくもの

だから人の言う事ややる事に「永遠」を重ねては駄目

存在している人や物の 

その奥向こうにあるイデアに永遠を重ねて

私達は実は目の前の存在を求めてしまっているらしい


私は私の大事な人を自由にしてあげるしかない

私も自由でいるしかない

一緒に居るのを許される間 一緒に居よう

ひりひり月曜日

今、通勤電車の中、ダライ・ラマ自伝を読んでいます。
まだ言葉にはできてませんが、
精神的な志の高い人々が虐げられている状況というのは、
はがゆくて胸が痛みます。。


勤務先に、外敵から自分の心を守らない人がいます。
何故かと思うくらい、
人に自分をけなさせてひょうひょうとしています。
でも最近、彼女の側に居ると痛みがひしひしと伝わってきて、
胸が勝手に痛みます。
愚痴る事もなく相変わらず冗談ばかり言ってる彼女ですが、
どうも最近、胸が痛くなるのです。


微妙な、彼女の表情の変化。
傷みに耐えているような・・
張り詰めた心がそこにあるとわかる、
泣き出しそうな顔。


一緒に働く仲間が、腰の低い彼女をけなします。
どうして複数人で、一人の人を徹底的に叩くんでしょうか。
はたまた、私が敏感すぎるのか。。
そんな事はよく見かける当たり前の事だから、
こうして書きとめるまでもないどうでもいい事なのか。


キリストは十字架に吊るしあげられた。
多くの敬虔なチベット人は残虐な拷問にさらされた。
例えばそれらの事と彼女の痛みとは、全く関係ない事か。
胸が痛くてしょうがない月曜日です。


残された時間

もし、人間としての煩悩を持って生きる時間が、
残り少ないとするならば、私は誰を愛するだろうか。。。


最近、ある人からアプローチを受けつつあります。
私が片思いし続けてきてる彼とは別人。
職場の人で、女友達が食事の仲介をしてくれて、
昨日仕事の帰りに三人で食事をしてきました。

帰りがけ二人きりになってから、
「ずっと気になっていたんです」という事を、
彼はさらっっと言ってのけてみせた。
臆する事を少しも見せずに。
大人だな、と思いました。
気持ちも揺れました。
人を怖がらない率直な人で、同時に人を思いやれる人。


密かに想像してみました。
この人とつきあっている自分。。
この人と交わっている自分。。
この人に愛されて大事にされて、いずれ結婚して子供ができて。。
彼に対して、いま恋心はないけれど、
付き合いだせば好きになるだろう。
このまま流れにのって行けばきっと彼とは、結婚までしてしまう。
愛される幸せ、気持ちを交わし合える幸せを思うと、
心が切なくなる。
私が望んでいる、心安らかでほっとできる恋愛が待っている。
心を裸にしてしまえる相手の居る幸せが、

手を伸ばせばそこにある。


そんなこんなで昨晩はブログを更新もできず、
電気を消したままの部屋で一人、
ベランダから吹いてくる風にぽーっと穏やかな気持ちになって、
眠りにつきました。

ところが今日、
ある方のブログを読んで気になった言葉を検索してまして、
たどりついたサイトが、、、
私の結婚へのカウントダウンを打ち消してしまいました。笑。


「フォトン・ベルト」~宇宙の法則研究会~ (大丈夫か私 笑)

こういう壮大な宇宙事・精神事に触れる時、
私の魂とも呼べる部分がぷるぷる震えて喜びます。
胸がいっぱいで、どこまでも広がってゆける気分になります。
ブックマーク貼ってあるので興味ある方はぜひ~。


この世界で出会う人を魂の底からのぞきこめば、
特別な関係にある人、結ばれた縁の人が誰かというのがわかる。
互いに学びあわなければいけない人は、
この人なんだとわかってしまう。

その見定めは、現世の私の意思に反している事も、ある。
現世の、特に今の私の意思といえば・・
「新しく現れた恋愛候補の人とおさまってしまいたい」笑
でも「宇宙の法則研究会」の様な記事を読んでると、
「だめじゃないのっっ」と、誰かに諭された気持ちになります;


現世の、現時点の事だけを見てはいけない。
自分だけが幸せになる事に焦点を合わせて、
私は人生を選択をしない。
もし自分の気持ちに本当に忠実に生きていいなら、
迷わず出家してたはずじゃないか。
「出家はしない」という選択をしたからには、
自分の魂からの使命に忠実に耳を傾けていたい。


片思いの彼へのチャレンジを、まだ辞めては駄目。
例え結果、彼と結ばれなかったとしても。
彼と分かち合うべき事が、まだまだある。
一年も好きと言えず、
手をこまねいて来ただけのつけが、まだある。
ノックしても開かない扉の前でもいいから、
ノックし続けなければならない。
例え片思いというドア越しでも、そこに対話がある限り。


むろん、彼の傷を癒す為にそうするんじゃない。
互いの傷を癒し合う恋愛はもうお腹いっぱいだし・・
自分の傷は自分で癒すしかない。
ドア越しの対話ででも、彼に何かを届けるように、
神様に言われてる気がしてしょうがないから。

「傷や痛みを越えてきて、早く」
私も私の傷を越えた場所で、待っている。

○チベット○

身体は週末になると特に疲れてきます。
その内、心も乗じてきて「疲れたかも」と言い出します。
そんな時は、
どこまでも続く長~い長~いアーモンドポッキーを
無心でかじり続けたいなぁ・・ うふ。


読みたい本が自宅に山済みなので、
今日は書店で本を買うのを思いとどまりました。
予約しておいた洋書が届いていたのでそれだけ買いました。

今、どんな本をカバンにしのばせておいでですか?
書店の新刊の人気本としては、
「さおだけやはなぜ潰れないのか」や,
ちくま新書の靖国問題本がありました。
あと「菊と刀」、これは非常に興味深い文庫。
内容は日本人の精神について。
(文庫なのに1200円でした)
しかし私が中でも最も心惹かれたのは、
「美しい日本語」という本です。

あぁ・・買いたかった・・
ある読書ブログの方のブログで紹介されてた本で、
気になっていました。
365の選ばれた「美しい日本語」が紹介されてます。
例えば「東雲」(しののめ)という言葉・・
わたくし、読み方も意味も恥ずかしながら知りませんでした;
「言の葉」というのも綺麗です。


しかしながら、目下読み開くは「ダライ・ラマ自伝」 笑。
チベットの事が気になっているくせに、
実は「本当のところの歴史」を知らないんだろうなと思って、
ダライ・ラマの書くチベットの歴史を覗きみてるところです。
今後どんな形になるかわからないけれど、
どんな形ででも、
チベットに関わっていきたいという思いが私に湧くのは何故なのか。
まだ理由はわかりませんが Σ(´д`;)、
少しずつにでも明らかにしていきたいです。。

ないでしょうか?何かに「惹かれ」たり「呼ばれ」たりする事。

実は・・昔から出家願望があるのですが、
ここ数年は特に強く「出家したい」と考えてました。
しかしまだ成さなければならない事があるような気がして、
どしても踏み出せませんでした。
一人で悟るという選択は簡単だけれど、
私は自分ひとり悟る為には、
生まれついてないような気がして。。

チベット仏教の思想とか、
精神世界とか、和尚の禅とか大好きなんですど、
十分には足を突っ込みきれなかったのでした。
そこで夢中になってしまったら、
私はもう二度と戻ってこれなくなるだろうと思えて。。
なんたって「悟り」は、私のやりたい最高の自己実現です。
「これ以上、人間に何の実現のしようがあるんでしょう」と、
思う程です。


明日このあたりを更に掘り下げてみようと思います。
豊かな「自分地下水路」に巡りあたりたく。。

キス キス キス

たとえ書きたい事がたくさんあっても、
「用意」ができていなければ、言葉は外へ流れ出さないものですね。。

「書けない・・」
シナリオの基礎の勉強をしていた時、
悩んだ末書くのをやめてしまいました。
体調もよくなく、心持ちもガラガラでした。

書けないと思っても、とにかくなんでもいいから、
自分で最低だと思う作品でもいいから書いて出しなさいと、
講師の先生が口酸っぱく言っていたのに。。

学校に行かなくなってから数ヶ月後、
今度はブログを書き始めたんですけどやはり書けない時はやってきました。
膨らませるのに十分だと思う日々の「気づき」を、
メモに取りまくっていてネタはあるのに、
いざ書こうとすると膨らませきれないんですね。
あきらかに肺活量が足りなくて。
勢いに乗れなくて。

「なぜなの・・」
いつも彼とは凄い頻度でメールしてきてたのになぁ。
出会ってから最初の7か月なんて、ほぼ毎日だったよなぁ。
。。。。。。。
そうか、人と対話するつもりで書く事を意識すれば、
結構書けるんじゃないのかしら。
彼にメールを打つ気持ちでなら、書けない事なんかないじゃないか。
それで今のところつらつらと書けるようになりました。
PCに向かうのでなく、これを読んでくれる生身の「人」へ向かって書く。
一方通行でなく書く。
人と分かち合う為に書く。

今まさに、このブログに目を通してくれているあなたに感謝します。
ファイアーウォールのその向こう、
インターネット網のそのまた向こうに居る果てしないあなたですが、
星の数ほどあるサイトやブログを思うと、
なんて運命的アクセスでしょうか。
膝をついて、お祈り。
明日もあなたに佳き日を(*'ω'*)
そして彼に、×××。

僕は暇なんでいつでもどうぞ

中学生の頃「花のあすか組」という漫画を読みました。

お勉強のよくできる幸せな家庭の女子中学生が、
ある時から学校でいじめに合い、自殺未遂をしてしまいます。
そこから自分を見詰めだし始め、
もがきながらもどんどん強くなっていくお話です。
もっと端的に言ってみると・・
「学校というレールからはみ出して生きる不良達の世界」
ほどかな・・


高校受験の頃この漫画にはまりにはまって、
勉強の合間、
台詞をノートに書き出す程うつつを抜かしてました;

しかし、心底から揺さぶられたものの、
当時15歳の私には理解できない内容もたくさんありました。
ところが最近、この漫画のある台詞を、
「こういう感じだったのか。。」と、
突然理解する瞬間がもたらされました。


ある時、主人公のあすかが友達のゆかりに頼みごとをします。
「いいよ。暇だから」という言葉と共に、
ゆかりは快く頼みを受けてくれるんですが、
その言葉に、強くて潔くて硬派なアスカが泣いてしまいます。


「えーーっっ・・全くわからん。。」(←当時の私 笑;)


ゆかりが「ばかね、どうして泣くの」って尋ねると、
あすかは「なんか今の、凄い響いた」って俯いて泣くんです・・


ゆかりとアスカの関係性はそんなに強くなく、
だからこそ輝くこの台詞なのですが、
その時は何度読んでみても理解不能でした。


それが去年の夏、
彼の人からこの台詞をもらった時の私の衝撃ったらなかった。
私の周りには、成功したい、競争に勝ちたい、
認められたい、目的を達成したい、
有名になりたいという人が多く、
私自身も去年の夏は四苦八苦目標に向けて精進していました。
そんな時やりとりしていた彼とのメールに、
「僕は暇なんでいつでもどうぞ」という、
言葉を覗いた時に止まった、私の周りの時間・・

彼からはいつも、「どうしたいこうしたい・・」というのを、
聞いたことがなくて、
私は今だってそこに惹かれているのですが。。

感動した事を告げると彼は、
「間違ってると思います」と言っていた。笑。
「夢を持つことが僕の夢」とも。

そう、暇な人が側に居ると安心しませんか?

結婚したら奥さんは家に居て欲しいって思う、

男の人の心理と似たようなもんで・・


子供の頃には親が、
学校に行っては友達が、
同棲しだしてからは彼氏が、
「時間がない」「忙しい」と言っては、
私の前から立ち去っていきました。
仕事の為、将来の為、お金の為という理由で。


私は、たった今、ここに居るのに。。


自分とここに居てくれる人が存在する事の感動を、
彼の台詞は一遍にわからせてくれました。
何年も忘れていた、
中学の時に読んだ漫画の中の台詞の解説を、
瞬時にやってのけてくれた人。笑。


自己実現に燃え、せわしなく戦う人生の最中、
「暇」という言葉をはばからず口にする人の存在の、
なんて静かで、穏やかで、優しいこと。
すぐ熱を帯びる私の心に、
たおやかな仕草で団扇をあおぎ、
まるっこくてやらかい匂いのする風を、
入れてくれる。。


「花のあすか組」には輝く人生訓が散りばめられております。
漫画喫茶に行かれる機会をお持ちの方には、
ぜひともご一読をお勧め。

コメントへのお礼

こんなうだうだな私のブログに、

コメントくださってどうも有難うございます。


ただ、コメントへのコメントを書こうとすると、

一部の方の分だけはじかれてしまいます。

よぉく見ると、どうもurlの登録ミスっぽいのです。


多分が私が、相手の方のブログに訪問して自分のURLを残した時に、

余計な「スペース」を入れて登録させてもらっていた様です。。

kyo-to のすぐ後の、.(どっと)の前に、

いまいましい余計なスペースがぁぁ;

でも直し方がわからなーい・・o(iДi)

他の方のコメントにはコメント返しできるんですが、

一部の方へコメントを返そうとすると、

「URLは次の形で入力してください」ってエラーで書き込めません;

なのでsakuraさん、豚さんへこちらの記事からお礼させて頂きます。


sakuraさん え
読むといつも、越路吹雪の「愛の賛歌」を思い出します。
鏡に向かっているような思いがするまで、
人に向き合えるかな私も。。


豚さん え

札幌で熱い祭りっていいですねぇ。

沖縄の夏祭りはひたすらに「暑い」ので:


もしどなたか直し方をご存知でしたら、

ぜひ教えてくやってださい。。

赤裸々に本音

私には変わったところがある。

無償の愛を持って望む人への気持ちをあくる日、
翻ってさっぱり排他する事がある。


ある期間、問題をとことん突き詰めて一晩休むと、
翌日、根底の感情からさっぱり拭い去られて、
あっけらかんとしてしまう。
何故だろう。。
嫌な事をひきずらないので助かってるけれど。
人にはそれが不自然に映るらしい。
周りが躊躇する程、何事もなかったようになるから。
ある程度気持ちを引きずる事はあっても二週間と続かない。


今回もそう。
恋愛は論理ではないとこれまで人からよく諭されてきた。
私は「頭で物事を考えすぎ」とよく言われる。
そう、考えすぎて駄目にしてきた事、
たくさんあった。。。
でも同時にこうも思う。
「論理は洞察への足がかり」


感情を伴う恋愛というドラマの最中、
事を洞察できていなくてはならない。
どこかで冷静に、
相手と自分の本当の心理を洞察していなくてはならない。
じゃないと、いつしか、

自分のエゴを満たす為に突っ走りだしてしまう。
それが人間。


自分を失うような熱烈な恋愛が好きじゃない。
自分と相手を敬い合い、大事にできる関係を私は望む。
そういう意味で夢中になる恋愛なら、かなりいけてる。笑。


人間関係は感情で紡いではいけない。
でないと、

本来が傲慢ちきな人間のエゴスペースにはいつしか、
「好きじゃなくなったから相手を大事にできない」という、

雑草がはびこる。
恋愛を感情でこなしてきた習慣から、そうなる。

どんなにhappyな「感情」であっても、
感情が主体である限り真に平和はもたらされない。
人を愛する気持ちよりも、
人の痛みを想像し、人を思いやる気持ちのほうが何倍も尊い。
自分の感情をコントロールするという行為が、尊い。
「感情」という人間の欲には限りがないから。。


行動を起こすのに、感情など伴わなくてもいい。
例えばつらい時、
どんなにその気がおきなくても、
無理矢理にでも身体を動かす事で気分が変わったりする。
嫌いな人に、
あたかもマイナス感情など持ち合わせてない様に振舞う事で、
本当に仲良くなれてしまったりする。

相手を大事にしようとする自発的行動が、
相手を大事に値する人間足らしめる。


もちろん感情を素直に感じる事は大事。
押し殺しては病気になってしまう。
でもその感情を感じきった後どう行動するか、
それが問題だ。

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