くろごませんべいです
こんにちは
ケガの状況記事は後程にして
城跡の続きです
無料の記事に注文を入れる人っているのだねってところは不納得のまま進めます
また、よそ様のブログでその事を愚痴ってました
城は落城する場合も予測して地下の抜け道などがあったりしますよね
関城というマイナーの城もなんと本丸から外へ抜ける抜け道らしきが存在します
が我々の想像を越えており
攻め手の敵将が城攻めの際に城に向かって地下通路を掘り進め兵隊を内部へ送ろうと目論んだという事がネットで確認できてます
歴史に詳しい専門家の鷲谷ブロガー様もあまりわからないらしいです
あの方は外国の歴史も日本の歴史も凄く詳しいので知らないと言うことは多分情報は元々あまりない武将と城のハズ
受け手の関城側も掘り進めたら地盤が弛んで崩落して
地下道決戦はすることなく終わった
という物語と言われてます
お互いに掘り進めて何の意味あるんでしょうね
外から攻められない攻め手が、城の内部へ向かって掘り進めるのは理解できるけど
籠城の受け手がそれに対抗する意味で外へ掘り進めたってモグラレースやってどうするって思います
この坑道は脱出させるための抜け道ではなく、単に戦争のためのモノだったらしいです
籠城側であれば私ならそんなムダな事しないけどな
待ち受けて袋叩き作戦にしますけど戦がお仕事の武将の考えることは我々よりも実践を積んでるので、私達が考えるよりも現実的な策だったのかも知れない
わからんです
地下道掘って戦闘するやり方は後に武田信玄がやりましたよね
籠城側が落ち延びる為に作ったわけではなく、地下道で張り合う為に作るっておかしな話です
この関城は住宅地一帯も城跡の範囲内とも伝えられており
その外枠がハッキリわからない城跡ですが相当広いです
住宅地含む地形はなだらかに見えて盛り上がりもあったりしたので、土塁もしっかりしてたのかと思われます
堀だろうかと思える場所は専門家ならばおおよその住宅地の地形で解りそうですが、城跡と言われてる場所しか見てないと堀がわからないです
土塁そのものの跡もあると情報はありましたが、調べませんでした
当主は討ち死にしてるので、逃げ延びてはおらず華麗に果てたらしいです
討ち死にした殿様は関宗祐そしてその息子か何からしいですね
この関城は宗祐よりも、もうちょいと前の先祖の関氏が建てたらしいけど詳しく解らないお城です
この城には北畠という元権力者と親王が寄りついており
北畠親房は元々違う城を頼ってましたが見限られ、関城を頼りに到着したらこのボンボン公家は居候の分際で守永親王等を呼び寄せ
(史実では北畠と一緒に関東へ来たとも言われていてその辺が定かに解りませんが、守永親王は途中静岡県で難破に遭い上陸してたと言われてます)
関宗祐と親王らは戦ってますが北畠親房は合戦の最中は執筆活動して『正統記』なるものを執筆し
他人を頼って居候してるならお前戦えよ人に迷惑かけて他人は自分の為に命かけて戦ってるのに何してんじゃってことですが
そんな性格だから京都で権力を失うんです
助けを求めて関城へ来た彼らは脱出し
後に生還
そして新しい時代の権力者なんだから要領よく生きてたって思います
そして、親王を奉じ奉って戦で討ち死にという関氏
現代の感覚では何のために戦ってるのかわからん城主は当時は名誉の時代なので納得したんだろうけど
その脱出劇に抜け道が使われてた可能性はあるのかの確認をしたかったのですが、住民から聞き逃しており、地下の抜け道を使ったのかどうか解りませんでした
史実ではお互いに掘り進めてたら崩落して使えなかったとは記載あったりしてますが、歴史は基本疑えです
伝承と記録は各々違うことがある
さて、落城が目に見えて関宗祐らは親王を脱出させる前に最期の宴をしております
自分達は親王を逃げ延びさせる為に時間稼ぎで死ぬまで戦うつもりですが
親王という立場ってそんなに偉いらしい
ろくに戦えない癖に偉そう勝手なイメージ
本丸よりも少し離れた場所にあるところで、死に別れの最期の宴を催した場所です
マイナー城跡探検
「関城跡」
は終了となります
墓マイラーカテゴリーを追加するか考えてます
では