静御前物語<10>
頼朝の使者は、その日のうちにやってきた。 私は生まれたばかりの子を渡すまいと必死に泣き叫び、胸にきつく抱いた。
しかし、私の必死の抵抗も空しく、子供は奪われた。 まだ、名前もない。 父親の顔を見たこともない。 生まれたばかりのこのいたいけな子を。 この世に生を受けて、たった1日で命を絶たれた。 後で聞いた話によると、由比ヶ浜に捨てられたそうだ。
今ここに、愛しい人も、その人との子供もいない。
歴史は残酷だ。 未来を知っていても、何も変えることなんてできない。 では、何のために私は時空を越えたのか。 もう、私はここにいる意味はないのではないか。
私は、意味のなくなった自分を葬り去るために、由比ヶ浜へ向かった。
***
結局、私は死ぬことはできなかった。 あの時代で、生きている人間ではないのだから、当たり前といえば当たり前なのかもしれない。 海に入ろうとした瞬間、また稲光がして、私は現代に戻ってきた。
あの時代で約1年過ごしたというのに、現代ではほんの1週間しか経っていなかった。
私はまた見覚えのない天井のある部屋で目を覚ましたが、そこは病院だった。 時代祭の後、原因不明の病で倒れた私は病院で1週間目を覚まさなかったらしい。
あれは、やはり長い夢だったのか。 でも、あの愛しい人の温もりは、まだ私の中に残っている。
「あれ・・・雪葉、今の黒髪良かったで」
退院後しばらくして、私は日常生活に戻った。 もちろん、「黒髪」のお稽古も再開したのだが、恋しい人を思う気持ちも、女の寂しさも、自分なりに表現できるようになってきた。
あの辛い出来事も、少しは無駄ではなかったようだ。
そして、今日も残り少ない舞妓としてのお座敷をつとめる。 馴染みのお客さんが、若い部下の人を初めて連れてきているらしい。
「よろしゅう、おたのもうします」
私は挨拶をして、顔を上げる。 すると、その若い男性と目があった。
ハッとした。 よく似ている。 私が大好きなあの方に。
お互いが見つめ合ったままどのくらいの時間が経ったのだろう。 いや、それは一瞬だったのかもしれない。
私は、心の奥底にある懐かしい記憶を思い起こさせるような、そんな気分に陥った。