もう一ヵ月以上過ぎてしまったのか、
まだそんなにも暑くは無く、紫陽花の撮影に勤しんでいた頃、
千本丸太町の交差点の白い紫陽花を撮影していた。



他の花壇では歌手のマドンナが異常に憎悪する
西洋アジサイは早くから咲いているのだが、
この一角だけにカシワバアジサイ。








その上にはスモークツリー?たぶん。





向かいの角は立ち入り禁止のフェイスが張られている。
かれこれ30年ほったらかし、それ以前には喫茶店が営まれていた。
2、3回、近くの印刷業者と打ち合わせをした事があった。

 


その印刷業者によると店主は無類の博打好きで、
仕事をおろそかにして土地も複数の抵当が入り、
挙句の果て自殺をしてしまい、その後この状態が続いていた。
そう言えば、カウンターの店主は何処と無く上の空で、
案の定、コーヒーも特別感が無かった。

 



それでもようやく歯医者の建設予定の看板が表示されていた。

 


それから数週間後、
カシワバアジサイは見る影もなく、
スモークツリーも枯れて、より一層煙の様に揺らいでいた。
ところが向かいの建設予定地の看板が何故か外されていた。








この辺りは平安京の中心地で大極殿のあった場所でもある。










内野公園に設置された石碑には、
ガイドに引率されたご年配の観光客。










この公園は知っていたものの初めて。
近所の子供、陰のベンチでは若いカップルが明るい内からいちゃついていた。






少し変わった遊技には、
「きみがため はるののにいで わかなつむ」と刻まれ、



おそらく藤原定家が選んだ百人一首、
「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ」による。
詠み手は58代天皇光孝天皇、




千本丸太町は取引の印刷屋があったので45年前から知っていたが、
事務所として引っ越してきたのは確か35年ほど前。

 



最初の事務所の産声は一乗寺下り松、
「宮本武蔵 一乗寺の決斗」の舞台で有名な場所だったが、
その後五条烏丸、銀閣寺、下鴨神社、そして流れ着いたのが千本丸太町、
約十年間の間に五か所、それからも商売を三回変え、この近辺を三ヶ所、
仕事は辞めてしまったが、幸か不幸か住まいも千本丸太町にしてしまった。


この場所で事務所を構えた時、何気なく目に入った交差点のシャッター。
元時計屋だがその時から全く変わっていない。
まるで時計が止まっているかのように、不気味だなと思った。

 


斜め向かいの元喫茶店同様、不良債権化してしまっているのだろう。
最初この不気味な言葉は聖書の一説かと思っていたが、
明治天皇と菅原道真の和歌をもじっているようだ。

いずれにせよこの交差点界隈の店の入れ替わり、

閉鎖はあまり心地よいモノでは無かった。


この場所から十数メートル下がった所にオーム真理教の道場もあった。
11階建てのマンションの一、二階を占拠していた。

当スタッフにちょっとしたオームのウオッチャーなる人物がいて、
たまに機関誌を持ち帰ってきて事務所に放り投げれていた。
全く興味は無かったがついつい暇で読んでいると、
外部か内部か知らないが社会学者と思しき人物の掲載文に、
将来的には携帯電話(スマホ)による人類の完全な管理体制、
スポーツの重要性強化、復興、メディア戦略、人類白痴化、
更に個人的には言えば日本独自に発展したコンビニの問題点の視覚化、
等の追求があればもっと良かったのだが、
スマホとスポーツに関しては、35年前の見解としては今の時代を言い当てていた。
もちろんオームはその麻原彰晃の幼児的な宗教体制、
上九一色村サティアン建設等、マンガみたいな国家造りは、
今の北朝鮮と変わる事は無く、地下鉄サリン事件で実質終結を迎える事になる。
当然、堀川にあった施設と共に千本丸太町も閉鎖されるが、
その後直ぐには借り手もつかず、数年後京都で中堅どころのレンタルショップ?
長続きはせず、その後京都で勢力を誇るスーパーのフレスコ、
近いので利用していたが、他店のフレスコほど繁盛せず撤退。
数年空いていたが、2018年前後にインバウンド効果で宿泊施設の需要が高まり、
千本通の二条駅から丸太町に俄にホテル建設ラッシュ。
こちらも低価格のカプセルホテルの様な施設が造られていたが、
オープンとほぼ同時にコロナ禍、暫く閉鎖していたが回復することなく撤退。
この辺の事情をよく知る人々の間では「オームの祟り」とまで囁かれていた。
しかし2年ほど前に百均のダイソーが一、二階で営業、
メチャクチャ流行っている事は無いが、
地域住民のマストとして重宝がられ、自身も頻繁に利用、ダイソー強し( ´艸`)!

 

千本通りは朱雀大路に一部重なっているが、
丸太町から今出川のメインの千本通りは大内裏に位置していて、
大内裏は行政施設・国家儀式や年中行事を行う殿舎、
天皇の居住する内裏が設けられ、大極殿は平安京の正殿。
大内裏の焼失は繰り返されていたが、藤原氏と平家の衰退、
源頼朝は日本初となる武家政権の誕生により、
大内裏、大極殿は再建される事は無かった。

千本通りはその後、
荒れ果てた大内裏に作られた船岡山の風葬地に繋がる通り。
幅82メートルを誇った朱雀大路と比べ物にならない程の細い通り、
千本の卒塔婆を建て供養、途中に釘抜地蔵、千本ゑんま堂。

大極殿についてもっと述べるつもりでいたが、
いつもの事で横道を暴走、最近お供え物を続けてする事があって、
男連中は興味が無いが、「おさがり」の担当をする女性は、
平等にそれぞれが喜ぶように配分をしているのが分かる。
今の親戚は大阪方面が殆どなので、京都のお供え物は多少注目される。
有名処の菓子類は一通りは持って行っているので悩みの種。
そんな時に知った大極殿本舗の「若あゆ」、京都大丸東隣の老舗の和菓子店。

 


この時期ならばどこのスーパーでも並ぶ和菓子の定番。
今更感があるが、京都人には初夏に心待ちにしている隠れた逸品。
多くは外側のカステラに餡と求肥。
大極殿の「若あゆ」は求肥のみ、何と言っても桂川を飛び跳ねる、
立体的なフォルムの鮎がこの時期の涼しさを讃えている、
果たして甘いモノに口が肥えている女性群に喜んで頂けたろうか?