レゲエの神様、ボブ・マーリーの「ONE LOVE」が公開されている。
近年、音楽に影響を及ぼしたミュージシャンの伝記映画がよく制作される。
当然制作者の思い入れ、脚色が入るので現実の本人とのズレが生ずる。
もちろんドキュメンタリー映画でも制作者の思いは入るので、
どこまでリアルな真実を伝えているか見極めが必要。

ボブ・マーリーのドキュメンタリーは既に何本かは観ているものの、
やはり重要な人物なので、今すぐでは無く、ネット配信が始まってから。
と言うのは、名画座育ちの年寄りには最近のミニシアターの環境は、
爆音の音響、CMの多さ、ハッキリ生理的に持たない。



それでも取り上げるのは
少しでもレゲエ、ボブ・マーリーについて深く知って欲しい、
その思いに他ならない。
その上でもっと踏み込んだ大事な事に触れてみる。

1970年代に成立したレゲエのリズムは何となくご存知と思いますが、
その以前スカのリズムは短期間だった事もあり、一般的には認知度が低い。

もちろんスカもジャマイカのオリジナルでは無く、
イギリスに渡り、洗練され進化系のスカになる。


スカはオフビートを強調したリズムが特徴。
ジャマイカのフォークやカリプソ、アメリカのR&Bなどの影響を受け、
特徴的な2・4拍目が強い裏打ち、基本はブラスを混成したダンスミュージック。
スカのもっとも初期のリスナーたちは、
地方からキングストン(首都)に仕事を求めて来た
ゲットー(密集居住地域)に住む若年貧困層(ルードボーイ)であった。
ルードボーイ達が踊ったスタイルによってスカにも影響を及ぼし、
音楽はより脅迫的に激しく、ベースラインはよりシンプルに変化した。
ルードボーイは不良行為少年を表すジャマイカのスラング。

しかしジャマイカのスカの最盛期は1960年代から1966年頃と短い。
イギリスに渡ったスカはスピードとビート感を増す事になるが、
ジャマイカでは逆にテンポが遅くなり、ビートも収まり、
1966年から1968年の音楽はロックステディと呼ばれている。
それ以降はジャマイカ音楽の大きな潮流のレゲエに統合される。


日本に伝わったスカはイギリス産のスカで
上からザ・スペシャルズ、ザ・セレクター、マッドネス、

 

 

 


この他にもいたみたいだが、これらのバンドがスカを牽引していた。
ジャマイカのスカはこの時点で日本で知る人は殆どいなかった。
スペシャルズの1979年発売の「The Specials」は全世界でヒットし、
その認知度はマッドネスの「One Step Beyond」が
日本でも1981年にホンダ・シティのテレビCMに使用され程だった。

 

 

 


イギリスはアメリカの様な黒人差別問題は抱えていなかったが、
資本主義経済の成立と共に資本家と労働階級の区分が明確になり、
労働者階級の若者は閉塞感と常に不満と怒りを感じていた。
それは1950~1980年代のイギリスのサブカルチャーの動きを見れば一目瞭然だ。
テディボーイ、ロッカーズ、モッズ、スキンヘッズ、パンク、
不満因子たちは即物的に音楽とファッションで身を固め、
独特のライフスタイルを主張していた。

スカのバンドは「2トーン・レコーズ」から殆どリリースされていて、
2トーンと呼ばれ、当時、移民として流入してきたジャマイカの黒人との、
人種的な緊張の高まりの中においての、
2トーンは黒人と白人同士の調和、協調である、と関係者が語っている。
スラングは多いが歌詞は直接社会の不満、主張、提案を表現している。又、

ザ・スペシャルズは黒人と白人、ザ・セレクターは男女の混成と、

編成に対しても時代に先駆けていた。




日本も少しずれはあるが高度成長期から資本主義の確立により、
労働階級の定着は進むが、イギリスと根本的に違いは、
最高学府は貧困家庭の子供でも勉強次第で入学できるが、
当時のケンブリッジ大学、オックスフォード大学は、
労働階級の若者には閉ざされていた。
それと最も大きな要因は、日本の若者の不満因子の捌け口は、
江戸時代より綿々と受け継がれ、戦後一層力を増すヤクザ組織に
吸収、コントロールされ、表現としては成立するのは難しかった。
暴走族、ヤンキーに若干の兆候が見られるが、
それも絶対的なヤクザの裏支配により抑えが働き、暴徒化する動きは無かった。
人種差別も朝鮮人、同和出身者に対して職業差別があったが、
外見的に判別できないので、極めて陰湿であった。
朝鮮人の若者は不本意な扱いに憤慨、反抗して道を外す者も多くいたが、
その受け皿となっていたのは、やはりヤクザ組織。
私の子供の頃のヤクザ組織は実際は湾岸の仕事、土木建設事業の下請け、
血の気の粗い労働者を取りまとめ、又、美空ひばり等の歌手公演、
関西では漫才、演芸の興行主として、表の仕事を堂々とやっていたが、
アメリカの指図なのか、どんどん表の仕事が剥奪され、
現在日本では、そのヤクザ組織が壊滅的。
それまで認められてきた裏世界でも影響を発揮できなくなり、

より闇の世界に姿をくらまそうとしているのは、嫌な兆候。

学校教育も塾、予備校のお金の掛かる教育ビジネスが蔓延り、

既に名門大学は富裕層の子息しか行けなくなってきてるのが現状。
これからの日本の若者はイギリスの1950~1980年代を再現するかもしれない。

 

 

 


ザ・スペシャルズの「The Specials」が流行っていた頃、
私と言えば、京都で印刷、デザイン、出版の事務所を立ち上げ、
全く経験のない分野に孤軍奮闘していた時期で、
三ヵ月で資本金がゼロとなり、それ以降、来る日も来る日も、
支払いと借金に追われ、不安と15年以上同居する事になり、
それで心臓に毛が生えてしまった( ´艸`)。
そんな時、朝仕事の出掛ける前に聴いていた「The Specials」。
戦いに出掛ける前の応援歌、ともかく勇気づけられ前に進む事が出来た。
長く聴いていなかったが、40年ぶりに聴いてみた。
いい年なのに、やはり元気になる、不思議?


日本でも数年後、スカバンドなるものが登場していたが、
時代はレゲエに移行していたので、
日本のスカバンドには全く興味が無かった。
当時最も有名だったのはジッタリン・ジン。
奈良県で結成された日本のスカバンド。
一般的には東京スカパラダイスオーケストラが
日本のスカの代表みたいに認識されているが、
ヒット曲としては「プレゼント」「にちようび」「夏祭り」等、
当時のスカバンドとしては驚異的な展開だった。
私としてはスカはゲットーに住む若年貧困層の叫びとして共鳴していたので、
奈良の田園風景にスカは違和感を感じていた、もちろんその他のスカバンドにも。
それでもジッタリン・ジンの軽快のスカのリズムと、
センスの良い歌詞にはファンでは無いが居心地良いものも感じていた。
「夏祭り」はWhiteberryの代表曲として知られているが本家はジッタリン・ジン。
又、このバンドは1990前後のバンドブームの中、当時メジャーで頭角を現し、
岸谷香のプリンセス・プリンセスより注目されていたのに、
それ以降殆ど表舞台から消え去ったバンドでもあった。

インターネットは問題点も多くあるが、
YouTubeは音楽好きにとっては魔法の玉手箱。
久しぶりにジッタリン・ジンの最新の動画を見る事が出来た。

 

 


昔のボーカルの春川玲子はどことなくぎこちなさがあったが、
5年前にアップされた「自転車」はスカが進化していた。


同時期にアップされた初聴きの「やけっぱちのドンチャラミー」は、
春川玲子はクールだが思いが溢れている。
ドラムの入江美由紀も負けじと強烈にビートを叩く。
奈良で誕生した牧歌的スカが言語を通り越して、
日本の今の若者を刺激するスカパンクとして進化、カッコイイ!

 


 

 

 

 

レゲエをもっと掘り下げる為に、
ジミー・クリフ主演の1973年製作の映画「ハーダー・ゼイ・カム」も
紹介するつもりだったが、またの機会。
ボブ・マーリーよりレゲエをいち早く世界に発信した、
当時のゲットーを舞台にルードボーイの生き様を見せつけた、
ジャマイカ版「勝手にしやがれ」、レゲエの息吹が圧巻。
自称B級映画研究家の私がベストテンを選ぶとしたら、
殆どドキュメンタリー映画になってしまうが、
唯一創作商業映画として選ぶ一本。

 


ハリウッドの様な資本も日本やフランスのような映画技術も無い、
初めてジャマイカの商業映画として低予算で制作された映画。
日本の映画は趣味の多様化で年間相当の数が制作されているそうだが、
観てみたいと思う作品が皆無、やけっぱちのドンチャラミー( ´艸`)。