今日の京都は最高温度27℃。
真夏日では決してないが、外を歩いていると、
すでに真夏の日差しのようだった。



京都国際写真祭も5月12日で終了。
大半の展示会場には行けなかったものの、
最後に辿り着けたのは京大西部講堂隣の関西日仏学館京都。
名称は何度か変わっているらしいが、
私の知った50年前は確か日仏会館と呼ばれていた。


当時は東山通り面に小さな扉が入り口だったが、
今は庭園の階段状の立派な扉が正式な入り口に変わっていた。



一階にカフェはあるが、レイアウトもガラッと変わっていて、
この建物の落成祝いに贈られた藤田嗣治の「ノルマンディーの春」は
その当時は庭園側の壁面に飾られ、シックな内装にマッチしていたが、
現在は若い人向けにオープンな感じで、
藤田嗣治の絵も落ち着き無さそうな感じがした。

 

 

 

 





その当時は新しい映画に飢えていて、
名画座巡りでは飽き足らず、自主上映、
特に京都は外国文化交流の会館で
一般では配給されない映画が上映されていた、








日仏会館の裏の日本イタリア会館、
川端通の京都ドイツ文化センター、
相国寺東にアメリカ文化交流センター?
今は京都ドイツ文化センターは別の組織に、
アメリカ文化交流センターは痕跡すらない。


フランスと言えばゴダール、
絶対的なヌーヴェルヴァーグの旗手、
ジャン=リュック・ゴダール
確か中国共産党にかぶれていた頃の『中国女』。
そこには『勝手にしやがれ』の軽妙さもスピード感も無かった。
フランス人の好む哲学的映画、
この感覚を日本人が共有するのは至難の業。



会場は一階で無かったのは憶えているが2階?
取りあえず埋没した記憶を辿る。




この会場に辿り着くまで苦労をした。
ガイドに掲載されている日時で伺うも、
四回目でようやく!



屋久島写真祭 × ヴィラ九条山 コラボレーション展「post-」






渡部さとる、苅部太郎、
ローン・セローシ、ジュリー・ヴァシェ氏による、



現在写真はSNS普及により、60億人総写真家時代を迎えている。
スマホカメラの進化は止まる事を知らず日進月歩。
このまま進むとカメラマンと言う職業は無くなるのでは、









この展覧会のテーマも難解である。
私の稚拙な脳では説明できないので、
主催者のメッセージをそのまま「丸投げ」









我々が認識しているものとは一体何か。

言語学者フェルディナン・ド・ソシュールによれば、
人間は社会システムの影響を無意識の内に受けており、
言語の恣意性により認識の齟齬が生まれるとした。
概念的に日本語では”蝶・蛾”は区別されるが、

フランス語では”Papillon”で統一される。
国や地域の差異によるこの認識の齟齬は、

無意識の内に世界の見え方や思考に影響を与える。

文化相対主義を謳った文化人類学者レヴィ・ストロースは、
社会に優劣はなくルートの差異なのだと言った。
一見、合理的には見えない文化・風習であっても、
そこには緻密な体系を持った知的フレームワークが存在する。
世界を分類し、秩序を与え、厳密な論理性を備えた”ブリコラージュ”なのだと。

社会は無意識的な構造とその関係性によって構成され、それは普遍で多様である。

本展示会は日仏4名のアーティストが、
それぞれ風土から培われた”感覚” ”認知” “概念”を用いて創造した作品を
アメーバのようにブリコラージュした。
空間がもたらす高次的且つ球体的な思考により、
“post-“の洞察のための機会となる事を願っています。

 



「”post”とは既に提起された一連の問題群の上で思考し続けることである。」
文化研究者スチュアート・ホール

 

 

 

 

 



大きな物語は終焉を迎えた?

 



ゴダールの『中国女』を観た場所は結局分からなかった。
分かったとしても『中国女』を理解できなかったので、
何も観てないと同じかもしれない、
50年前に日仏会館に来た事も嘘かも知れない。

 

 

 

 





日の丸にトリコロール、
新しく加わったEUの旗が棚引く五月の空。