現在の京都はこれっていう撮影素材が無い。
例年の事なのだが、
それでも手を変え品を変え様々な企画ツアーが組まれている。
目ぼしいものが出るまでは映画か音楽で憂さを晴らすのが良い。
最近の映画はどんどん興味が無くなって、
邦画、洋画とも半世紀以上の作品が新鮮で面白い。
最も興味があるのはドキュメンタリーだが、
これも観たいモノは配給されておらず苦労している。

今年に入って英国ファッション界を代表するデザイナー、
ヴィヴィアン・ウエストウッド「最強のエレガンス」。
シューズ・デザイナーのルブタンの「ファイアbyルブタン」。
ヴィヴィアン・ウエストウッドはパンクファッションの仕掛け人。

 


セックスピストルに影響受けた日本のパンクバンドが結構いたのは知っているが、
何かしらこい、日本の土壌にパンクするモノがあったのか極めて疑問に感じ、
学生運動もフォークソングブームにも同じような印象を持っていた。
ドキュメンタリーを拝見して、要するにセックスピストルは
パンクファッションを売る為に結成された即席のバンドだと分かる。
ビートルズが音楽で一大産業になったの手本に拡大、音楽+ファッション。

 

 

 

 


ルブタンのクレイジーホースダンサーを使ったアートショーは最悪。

最後に「草間彌生 INFINITY」を観た。
アメリカ人女性ドキュメンタリー作家ヘザー・レンツの長編デビュー作。




今でこそ草間彌生は日本を代表とするアーティストとして知られているが、
1960年代、草間彌生は日本人からも奇異な対象でしかなかった。


 

 

 

 

 

1929年に長野県松本市で生まれた草間彌生。
種苗業を営む裕福な家に生まれ、4人の子供の末っ子。
父の放蕩と母の虐待、幼少期から総合失調症に悩まされ、
幻覚や幻聴から逃れる手段として絵を描きはじめるように。

彼女は一目散に対象を描いてしまう。
それは幼少期に絵を描いているのを母親に見つかると、
取り上げられ破る捨てられるからだった。



脳裏に浮かんだ幻影を素早く書き起こす、
まるでシュールリアリズムの自動筆記、
幼少期からダダイストだった。

1945年、「全信州美術展覧会」にわずか16歳で入賞。女学校を卒業した後は、
京都市立美術工芸学校の4年生に編入して日本画を学び、1年で卒業。
その後は地元の松本をはじめ、東京などで個展を開催するが、
偶然アメリカ女流画家のオキーフの《黒いアイリス》が目が留まった。

 

 

 

 

 

 


たった一枚だけであったが、この絵に魅了され、刺激を受けオキーフ本人に手紙を送った。
これからどうすれば、面識のない作家に問いかける。
オキーフからは『是非アメリカに来るように…、私の住んでいる田舎で無く都会』
新しい芸術は最大都市ニューヨークで生み出される事を示唆する

それまでの2000枚に及ぶ作品を全て燃やしてアメリカ行きを決意。
1957年、単身28歳にはアメリカに渡り、活動の拠点をニューヨークする。
当時のアメリカ画壇は最新芸術であっても男性社会、
特にアジア人をアーティストとして受け入れる土壌が無かった。
自分をアピールする為に着物を着る事もあった。
同時期、オノ・ヨーコも活動を始めていて、
彼女は印象付ける為にギャラリーではいつも黒の上下を身に纏っていた。

草間彌生とオノ・ヨーコは年齢、性別、人種、前衛芸術と似た要素が多いが、
結婚経験のない草間彌生、少なくともとも三回は結婚しているオノ・ヨーコ。

 

 

 

 



草間彌生は男性、セックスに対しては恐怖感持っていたと回想しているので、
唯一パートナーだった変わり者のジョゼフ・コーネルとの関係は不明。

オノ・ヨーコはジョン・レノンと『ベッド・イン』で、
草間彌生はベトナム戦争反対でストリーキングで「愛と平和」、
この時代日本人女性アーティスト二人が全裸となった事は大事件、
この行為は今考えてみればベトナム戦争反対の
大衆深層心理に大きく影響を及ぼしていたとも言えなくも無い。







この当時、日常生活でこんなファッションセンスを持っていた。
時代の求める色彩感覚を持ち備えていた。









コーネルが描いた草間彌生。


この時、コーネルの母親から水を浴びせかけられる酷い仕打ちを受ける。
おそらく東洋の魔女にか弱い息子が洗脳されるのを恐れたのか?
まるで路上で人目をはばからず交尾をする犬のような扱い。


時を同じくして、スポーツの世界で女子バレーボール日本代表が
東洋の魔女と呼ばれ、1961年の欧州遠征で24連勝した際に、
現地メディアにつけられたニックネームである。
1964年東京オリンピックでは、
強豪ソビエト連邦(現ロシア)チームを破り金メダルを獲得。
小さな身体なのに世界各国から恐れられていた。

オノ・ヨーコはビートルズを解散させた女、
ジョン・レノンを操る魔女のように、
日本のマスコミも扱いが酷かったが、
オノ・ヨーコは草間彌生よりマスコミを利用するのが上手だったのと、
ジョン・レノンの多額の遺産を得る事で少し変わってきた。

いずれにせよ当時の二人は、日本人男性からも嫌われ恐れられていたのは事実で、

なので欧米人にはもっと得体の知れない魔女の様な存在だったのだろう。




草間彌生は男性社会が蔓延る美術界で、
ありとあらゆる表現方法を試みる。

 

 

 

 

 

 




1962年に行われた、
クレス・オルデンバーグやアンディ・ウォーホルらも
参加したグループ展に参加し、彼女ならではの表現を見せつける。









絵画のみならず、男性器をモチーフにしたソフト・スカルプチャー、
鏡や電飾を使ったインスタレーションやハプニング、
ボディ・ペインティングなど様々な作品を発表し、
「前衛の女王」の異名をとるが、
その斬新な作品表現は周りの男性アーテストに簡単に真似られた。

 

 

 

 




「前衛の女王」と持ち上げられるが、
美術界では商品価値として認められていないので、
アンディ・ウォーホルがパクったとしても誰も気にしない。

 

 

 






本来、新しい芸術を追求する者にとって、
表現方法は根幹をなすもので、
芸術家としてのアイデンティティなので
他人の表現方法を真似るなど出来ないのであるが、
ビジネスを優先するニューヨーク美術界では弱肉強食。

 

 

 

 



仕方なく彼女は制作過程を見せないように遮断、
精神状態はますます悪化、窓から落下、
自転車の上に落ちて一命を取り留める。

 

 

 

 

 




この時すでにヨーロッパでも彼女の名前は知られていて、
66年には第33回ヴェネチア・ビエンナーレに参加する一方で、
映画製作や新聞の発行などメディアを使った表現も行う。

 

 

 






作品「ナルシスの庭」。









彼女は作品のミラーボールを一個2ドルで売り出した。










なんでアイスクリームと同じように売って悪いのか?










主催者が阻止すると彼女は新たな動きをする。










最も過激だったストリーキングのハプニングもやってのける。










この当時の美術の新しい表現は殆ど草間彌生、
一人が編み出している、
これもヒッピーブームメントと連動したボディペインティング。









初めてゲイの為に結婚式を挙げたも彼女だ。










1968年、自作自演の映画『草間の自己消滅』が第4回ベルギー国際短編映画祭に入賞、
第2回アン・アーバー映画祭で銀賞受賞。また、第2回メリーランド映画祭でも受賞。









オノ・ヨーコはジョン・レノンと『ベッド・イン』で、
草間彌生はベトナム戦争反対でストリーキングで「愛と平和」、
この時代日本人女性アーティスト二人が全裸となった事は大事件、
この行為は今考えてみればベトナム戦争反対の
大衆深層心理に大きく影響を及ぼしていたとも言えなくも無い。

二人の接点は殆ど無かったと思われるが、
愚鈍な男性にはとても出来ない、ともかく勇気ある行動、表現。
「愛と平和」がリアルに目標になり、時代を触発していたのは事実だ。

しかしベトナム戦争反対の気運が高まり、時代が落ち着きだすと、
草間の前衛的な芸術は意図するかのように忘れ去られる。
1973年、パートナーのジョゼフ・コーネルが死去すると、
彼女は体調を崩し日本へ帰国、入院した。
対照的にオノ・ヨーコはジョン・レノン妻、前衛作家として注目され続けた。




帰国後も治療受けながら作家活動を再開。


個展を開こうとするが、アメリカ以上に日本美術界は沈黙し、支援を受けられず、

1952年に初めて個展を開いた地元松本市の会場を借りるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 




この時は父親の死も重なりかなりダークな色調が多い。
それでも草間彌生を知っていた関係者が彼女の為に立ち上がる。

 

 

 

 

 




それ以降も、1978年に初の小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』を発表し、
小説家としての活動を始め、1983年には小説『クリストファー男娼窟』で
第10回野性時代新人文学賞を受賞。

 

 

 

 





アトリエは治療を受ける病院近く。










治療を受けながらも、信じられない速度で作品を仕上げていく。










フジテレビギャラリーをキッカケに、
アメリカ人女性サーキュレーターにより、
ニューヨークでも「草間彌生回顧展」が開催される。




これに日本政府も動き、
1993年イタリアのヴェネチア・ビエンナーレで
日本人館で初めて個展を開く事になった。









この時も精神病院で治療中だったが、


これは政府に隠して、医師付き添いで渡航していた。







この後日本美術界もようやく彼女の事を認め、


草間彌生は名実共に日本を代用とするアーティストとして、
万人が認める事になった。

 

 

 

 

 

 




彼女は今でも治療を受けながら精力的に作品を生み出している。

やはり描くスピードは速く、キャンバスが間に合わないと呟く、

自動筆記、ダダイストで前衛作家で誰も真似る事の出来ない草間彌生だ。






現在、東京には草間彌生美術館が存在しているが、
地元の松本市にはそれ以前に松本市美術館が建っていて、
多くの作品が常に見る事が出来る。

特に地元の子供たちが草間彌生の展示会場を楽しみにしているらしい。










子どもの時の視点を忘れず、精神が侵されようが表現、
逞しく追い続けるアーティスト魂は永遠。

 

 

 

 



私は能天気で失敗しても後悔は殆どしない方だが、

高校生の時、受験勉強に全く身が入らず、
日本の学生運動にも懐疑的だった。
それで思いだったのが、
神戸のメリケン波止場からアメリカに向けて密航を考えていた。
アメリカには好きな建築家がいたし、
ファッション、映画、音楽、生活環境、全て憧れの土地だった。


だが結局、親友のしつこい説得で日本に居る事になった。
あの時、馬鹿で無謀であっても何で密航をしなかった、
していたら、ひょっとして草間彌生にもオノ・ヨーコにも、
直接会う事が出来たかもしれないと、思う事がある。

久々に観た感動のドキュメンタリー映画ですので、お薦め( ´艸`)。