長楽寺は円山公園の奥まった場所にある、
平安時代に最澄によって創建されたと伝わる寺院。
隣接する円山公園や大谷祖廟もかつては、
長楽寺の敷地という大きなお寺だった。



延享2年(1745年)、
江戸幕府第8代将軍徳川吉宗により1万坪もの境内地を没収され、
没収された土地は隣接する真宗大谷派の大谷祖廟に寄進される。

これ以降、寺勢は衰微しはじめ、
養福寺に寺地の一部を譲って浄土宗西山派に改宗する。
しかし、1870年(明治2年)には時宗遊行派に改めている。
また、1871年(明治4年)に上知令によって境内地を政府に没収され、
没収された土地は1886年(明治19年)に円山公園の一部とされた。
ともかく、東山の一等地に広大な敷地を有していた。



急な斜面に設けられた伽藍はそんな面影は見当たらない。
静まり返り、寺の関係者の気配も感じられない程。
地理的に京都でも活気のある観光エリアなので、
ある意味、上がってきた参道が結界のようにも感じられる。

 

 

 

 

 

 



三週間前のちょうど紅葉の時期だったが、
紅葉や本堂、宝物館が目的ではなく、
相阿弥作の池泉観賞式庭園を拝見したかった。






直ぐには見つからず、受付まで戻り尋ねる。

 



学生の様な若者が応対された。

 

 

 

 

 



道順通り進み、最後にあるとの事。



元の道順に戻り、本堂、鐘楼の先の、

 

 

 

 

 

 

 

 

 



「平安の滝」の名付けられた人工の滝は相阿弥作。








宝物館には関係書物、

 


歴代の受け継がれてきたお坊さんの数体の座像。











決して慌ててはいないが、

 

 

 

 

 

 





この竹藪の下のようだ。








あれ!ネットで垣間見た庭園とイメージが違う。

 


庭園を形づける建物、書院の様な建築物が取り壊されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



後ろを見ると「平安の滝」から流れる水路、











この池に流れ込んでいるが、
肝心の観賞する対岸の部分が掘り起こされ、
大きな岩が無造作に置かれている。










そう言えば一年ほど前前に訪ねた時、
改修工事がなされていて拝観できなかった。










新しく建物が出来て、庭園が整えられるのは数年は掛かりそう。











茶席の様な建物は残されるかどうか分からないが、
連結部にはビニールシート、


こんな状態なので庭園については「差し控えさせていただきます」、
となんて、馬鹿な政治家のような事をうかつにも言ってしまったが、
政治からしばらく離れていた田中眞紀子さんが久々に吠えた。
田中眞紀子さんは絶大なる政治権力を握った田中角栄と違い、
世襲ならばその支配力、親の七光りを利用しても良さそうなのに、
逆に一匹狼的に政治の改革、社会性の改革を望んでおられたような。
政財界の裏の世界、金権政治、数、組織力の強さを目の当たりにして、
当然父角栄を尊敬はしているものの、逆に父の作り上げた腐りきった政界を
何としても国民の為になる筋道を創り上げたかったようにも見受けられる。
結局は小泉純一郎に毒を盛られたかのように自民を辞め、
更にあれだけ持ち上げていたマスコミは手のひら返し。
一方、過激で無責任な言動に批判的に見る方もいるが、
何を言っているか分からない政治家より断然マシ、
それ以上に政治を表舞台に出して演じられる能力をお持ち、
ドラマ性のないドラマ、伝える事も無いのに歌う歌手、
そんな低俗なエンターテイメントより、眞紀子さんの方が見る価値がある。
随分と年を召された感じもするが、批判精神はピカイチ、
腐りきった政治家に喝。



今最も興味がある相阿弥の庭が完全な形で観れないのは残念。

 

 

 

 

 

 

 





長楽寺のこの庭は室町時代、
将軍家に仕えた絵師でもある作庭家・相阿弥が、
足利八代将軍義政の命により銀閣寺の庭を作る時、
試作的に作ったと伝えられ、苑内に東山をとり入れ、
山腹より湧き出づる滝の水を落として苑池となし、
「築山庭造伝」(享保二十年1735)にも「相阿弥作」として
「庭の景すぐれて自然の趣のあるすがた」と讃えられている。

 

 





多くの作庭、趣向を凝らした造園、卓越したセンス、前衛的な試みで、
誰もが認める作庭家は幕府のお抱え作事奉行の小堀遠州となるが、
数は少ないが相阿弥ほど時代を超えて庭園芸術を
エポックメイキングした人物はいないと、この頃感じている。

 

 

 

 

 

 



銀閣寺の月の明かりを四次元的に捉えた銀沙灘、向月台、
清水寺成就院の「月の庭」、「雪月花の三名園」として知られているが、
岩倉の妙満寺の「雪の庭」、先ごろ復活した北野天満宮の「花の庭」。
いずれにせよ、「月の庭」の完成度は抜きん出ている。
青蓮院門跡の「相阿弥の庭」、大徳寺龍源院の北庭。
大阪市の願泉寺庭園、滋賀の円満院の宸殿南側に広がる庭園、
同じく滋賀逢坂関手前の月心寺の「走井庭園」、
そして龍安寺の「石庭」、
もっともこの「石庭」は寺側は作者不明としているが、
最近では西洋画法のパースペクティブを基に、
この技法を知る事の出来た小堀遠州を作庭家とする建築関係者もいる。
しかし、数多くの色んなタイプ、スタイルの庭園を手掛けた、
彼の手法から龍安寺の「石庭」に結び付けられる要素は見受けられない。


やはり、寛政11年 (1799)年に刊行された『都林泉名勝図絵』に
室町時代の同朋衆の相阿弥作としている記述が最も信頼おけるし、
これだけ時代、国を飛び越し、
芸術的感動を与えるアーティストは相阿弥以外思いつかない。

 



いつ修復作業が完了するか分からないが、
もう少しは長生きして、何としても拝見し、
「差し控えさせず」ずけずけと意見を言わしてもらえれば( ´艸`)。