前回の表千家の続きは裏千家。表あっての裏だが、
実質、日本の茶の湯の代表格は裏千家でもある。



千利休の孫に当る宗旦の長男の千宗拙(せんそうせつ) は
父との折り合いが悪かった為、
家を継がず早くに家を出て江戸で浪人暮らしを送っていた。
最初に茶道を継いだ三男の江岑宗左(こうしんそうさ)は、
父の茶室である「不審庵(ふしんあん)」を継ぎ表千家を創設。
そして四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)は、
表通りに面する不審庵の裏側に茶室「今日庵(こんにちあん)」を建立し、
これが裏千家の由来となる。
その後、養子に出されていた次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)も戻り、
次男は少し離れた武者小路という通りに「官休庵(かんきゅうあん)」を建て、
これが武者小路千家の由来となる。



広い堀川通りの寺之内通りを東に入り、
少し狭い小川通りを上がると、










文字通り表千家の「不審庵」裏に位置する裏千家。






今日庵は裏千家を代表とする茶室、また、裏千家そのものを意味する。
宗旦が作ったこの茶室「今日庵」の一畳台目という極狭の空間。
お点前をする点前座と客が座る客座が一畳ずつで、
千利休の侘び寂びを求めた理想の先にある、極限の茶室と言えるのだろう。



宗旦が茶室の席開きの日、
禅の師匠である清巌和尚を招いていたが、時刻になってもこないので、
宗旦は「明日おいでください」との伝言を残し、別の用事に出かける。
不在の間に清巌和尚がやってきて、その伝言を聞き、
茶室の腰張りに「懈怠比丘不期明日」と書きつけて帰る事に。。。
意味は「怠け者の私は、明日の約束はできません」となる。
これを見た宗旦は、少し先の事も分からないこの世で、
明日の約束を求めた事、今日という日を疎かにしていた事に気づかされる。
宗旦はこの事から、この茶室を「今日庵」と名付けたそうだ。



庭園は国名勝に登録されていて、
玄関までの前庭に鴨川の真黒石を敷き詰め、
邸内の各茶室をつなぐ形で露地が設けられている。









茶室としては他に、「又隠席(ゆういんせき)」(四畳半)、
「寒雲亭(かんうんてい)」(八畳)、「利休堂」(三畳中板)、
「咄々斎(とつとつさい)」(八畳)などがある。









内露地に利休遺愛の小袖手水鉢、角型利休石灯籠などが据えられる。
菊の井の井筒があり、躙口付近には飛石がある。





















一見自然の庭、樹木の佇まいだが、
あらゆる所に亭主の心配りが感じられる。











 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

声なき亭主の誘導先に質素な中門。











その先には「今日庵」と並んで、裏千家の代表的な茶室「又隠席」。











利休の寂び侘びに徹した所から「乞食宗旦」と呼ばれた宗旦。

 

 

 

 

 


千利休はキリシタンだったのではないかと指摘されるが、

よく言われるのは茶の湯が聖書に通じていて、
利休は畳の上で行われたキリスト教のミサにことのほか影響を受け、
自らの茶の湯のにその所作を取り入れたともよく聞く。

 



ここでも表千家の「不審庵」同様、
裏千家の心臓部分である「今日庵」は披露されていないのが残念。
やはり実際拝見する為には、千家に入門しなければならないのか?
筋金入りの怠け者なのでそんな事は絶対あり得ない( ´艸`)。

 

 

 

 

 

 





利休、宗旦の追い求めた極狭の茶室、
真意はともかく、究極の一畳台目「今日庵」は、
どこかキリスト教の懺悔を行う告解室に似ている、不思議。