昨日の京都、陽射しはキツク無かったが、
日本周辺に近づいていた2個の台風が熱帯低気圧に変わったせいか、
ともかく蒸し暑く、不快指数150パーセント。
沖縄の南の熱帯低気圧が24時間以内に台風へ変わる見込み。
ともかく日本周辺は慌ただしく、すでに台風銀座の模様。



例の如く、撮影を控えてDVD観賞と音楽編集で憂さを晴らしている。

 

 



昨日見終えたNHK日本庭園 [1]。
宇治平等院、龍安寺、天龍寺、銀閣寺、
常寂光寺などの紅葉の庭、無鄰庵、松尾大社、朱雀の庭。
観光の定番なので取り分け特筆すべきものは無いが、
銀閣寺は面白いスポットの当て方をしていたので、




私が営んでいた制作事務所は京都市内を7回ほど引っ越しをしている。
巷では「流浪の事務所」と囁かれていたかも知れないが、
銀閣寺のお膝元でも一軒家の民家で2、3年程事務所を構えていた。




近くだったので拝観するのは容易だったが、
群衆が嫌いだったのでおそらく観ていない。



総門にいたる蟹真黒(かにまぐろ)の石畳。

 

 

 

 

 

 






異常に高い銀閣寺垣に誰かのナレーションが流れる。












爆発芸術家の岡本太郎の文章だ。

 

 

 




やはり母の歌人で小説家・岡本かの子のDNAを引き継いでか、
意外と多くの著作物も残している。



ここからは岡本太郎の視点で庭園が語られ、
銀閣寺と岡本太郎の意外な一面が披露される。







日本庭園をイメージしてきた岡本はこの光景に驚かされる。



白砂を段形に盛り上げ単純化された銀沙灘(ぎんしゃだん)。
これはまるで現代アートであり、ある意味モダンである。







その先には向月台(こうげつだい)と観音殿(銀閣)が並ぶ。



円錐状の盛り砂は上賀茂神社の立砂に少し似ているが、
高さ約1.8メートル・底部約3メートルはバカでかいので、
他に目的があるのだろう。
向月台と言う位だから、当然月に関係するのだろう。





正式名慈照寺(じしょうじ)は臨済宗相国寺派の境外塔頭。



室町幕府8代将軍足利義政は1473年に子の足利義尚に将軍職を譲り、 
大文字山手前の月待山麓に東山殿の造営を始め、1490年に完成。
この地は応仁の乱で焼亡した浄土寺のあった所である。
東山殿の建設は室町時代後期、1482年~1490年の8年間続けられ、
造営には義政の祖父・義満の残した西芳寺の徹底した模倣が行なわれた。



庭園には義政の浄土信仰、蓬莱神仙思想が表現され、
観音殿(銀閣) はは今は存在しない西芳寺の瑠璃殿に倣ったと伝えている。



義政が月待山と名付けられた麓に造ったのは、
当然月見が重要な役割を持っていると思われ、
観音殿前の錦鏡池(きんきょうち)が鏡の役目を果たし、
そこには月が映り込み、その饗宴の舞台となる。








岡本の奇抜な造形、絵画から想像できない程、
至極真面で真面目に月との戯れを語り出す。

 

 

 

 

 

 

 

 













 

 

 

 

 

 

 

裏山から錦鏡池に注ぎ込む滝の名前は洗月泉。



金閣寺が文字通り金箔を貼った建物であるのに対し、
銀閣寺には銀箔は貼られておられない。
慈照寺が銀閣寺と呼ばれるようになったのは、
1658年に刊行された『洛陽名所集』に「銀閣寺」の名前が見られ、
この記録が最も古いとされている。


特徴ある銀沙灘、向月台の製作年代は江戸時代後期とされているが、
1799年(寛政11)刊の都林泉名勝図会には相阿弥作として、
向月台はかなり低いが、今とあまり変わらない造形が描かれている。



相阿弥(そうあみ)は生年不明、1525年11月12日没。
足利将軍家に同朋衆として仕え、絵師、鑑定家、連歌師、
又、名園の関りの強い方で、龍安寺の石庭、青蓮院の築山泉水庭、
特に清水寺成就院の「月の庭」は単に池に映る月だけでなく、
月夜の庭が光り輝くように白い自然石を用い、

全体が「月の庭」なるように考えたアイデアマン。


何故に銀閣寺と呼ばれるようになったかを推測する。
尤もらしい説は創建当時は銀で覆われていたが、剥がれ落ちてしまった。
しかし2007年1月5日に行われた調査により、外壁には銀箔が貼られておらず、
二階部分に黒漆が塗られていた。
ここで考えられるのが光沢のある黒漆に日光が反射して銀に輝いて見えた。
もしくは月の光が銀沙灘、向月台の反射し、月夜に銀の楼閣を浮かび上がる。
銀沙灘、向月台の白砂がレフの役目を果たす事になる。



元々は相阿弥のプランは二階から錦鏡池に浮かぶ月と実際の月、
更に月光を帯びた銀沙灘が海原の様に揺らめき、
波間に浮かび上がる向月台の満月、トリプル・ファンタジー。

 

 

 



その結果、観音殿を月夜にもっと銀色に輝かせるのには、
レフの役目の向月台の反射面を拡大さす為に徐々に高くなる。

 



これによって名実ともに銀閣寺が誕生したのでは。


もう一つ考えられるのは観光としてのプロジェクト。
1799年刊都林泉名勝図会の図版をよく見て頂ければ分かるのだが、
観音殿の二階から庭を見渡す観光客、庭にも何人もの観光客。
当時すでに寺院の観光事業が成り立っていて、
都林泉名勝図会は名所のガイドブックで、
今で云うJTBの「るるぶ」みたいなもの。
すでに莫大なる財源を生み出していた金閣寺、

そんな金閣寺にあやかりたい、同じ相国寺派の慈照寺、

北西の金閣寺、北東に銀閣寺があってもいいじゃないか!?

更なる京都の観光事業を発展さす為に考えられた最強の組み合わせ、

ゴールデンコンビの金閣と銀閣の誕生、

優秀でない観光プロデューサーでも考えつくアイデア、
将棋の銀と金、観光としては浸透力がずば抜け、今日まで至る。

 


と云う事でどのように舞台演出をしたら銀閣に見えるか追求した結果、
相阿弥が考案した向月台の高さは幾度かの改修により、
推定10倍のバカでかいものになってしまった( ´艸`)。

1802年、滝沢馬琴は金閣寺、銀閣寺の拝観料が銀1、
10人までは2匁(もんめ)と記し、すでに観光寺院だったと述べている。