最後に、知られざる月の館「桂離宮」で取り上げるのは、
やはり月に関する事になるが、
その前に御殿三棟の奇跡の成り立ちについても触れておきたい。

桂離宮が造営された下桂は「源氏物語」松風帖に登場する
光源氏の「桂殿」はこの地にあったとされている。
平安時代1018年、藤原道長の山荘「桂家」が営まれ、
以後、この周辺は藤原氏長者が引き継ぐ。
室町時代1535年、下桂庄は近衛家の所領になり、
1573年、桂川西岸一帯は細川幽斎の支配に入る。
安土・桃山時代1585年、古田織部、子・重嗣が支配するが、
1615年、大阪内通の罪をかぶせられ親子自刀。
その後八条宮家の領地となる。
この下桂も智仁親王同様、数奇な運命を辿っている。


江戸幕府は朝廷の行動の統制を目的として、
1613年「公家衆法度」「勅許紫衣法度」を制定し、
次いで豊臣家滅亡後1615年には「禁中並公家諸法度」を公布、
それにより朝廷の行動全般が幕府の制圧下に置かれる。

智仁親王は幕府の制圧を嘲笑するかのように、
月が住む言われていた下桂の地に平安王朝の時空間再生の試み、
桂離宮のはじめの一歩、1615年に「瓜畑のかろき茶屋」が完成、
凄まじいスピード感である。


八条宮家は豊臣秀吉と智仁親王との養子縁組が
秀吉に実子の鶴松が生まれた為に1589年一方的に解消され、
同年12月に秀吉の奏請によって新しく出来た宮家である。
勿論その時にそれ相応の手切れ金なるものが発生しているが、
その後、今出川通りの本邸以外に開田御茶屋、御陵御茶屋、
鷹峯御屋敷、小山御屋敷も所有していて、
桂川の材木の運搬事業等の収入はあるとしても、
幕府からの締め付けは厳しいものもあり、
桂離宮の造営は、相当に難しいものだったと推測される。



御殿の一番手前が古書院、初代八条宮智仁親王の造営。
背後の中書院、新御殿は第2代智忠親王の増築。
しかしそれは26年の造営のズレを感じさせない統一感。

 

 

 



細い柱に軽い杮葺き屋根、
それは古書院をベースに増築されているからである。

 



必要な素材だけで無駄な装飾を排除した立体構成、
これがモダニズム建築の二大巨匠、
ル・コルビュジエとヴァルター・グロピウスを唸らせた。

これはいかにも計算されたかのように見えるが、
ここにも偶然の軌跡が眠っていた。


これは古書院の内部である。
襖と床周りに五三の桐文様の唐紙が用いられ、
闇に仄白い桐の葉が浮かび上がる趣向だが、
これは第2代智忠親王が増築した中書院、新御殿にも、
共通的に採用されて一体感を演出している。

 


しかし、初代智仁親王が造営した時点では無地、素材のまま、
おそらく採用されていなかったと思われる。
やはりその当時、財政的にそんな余裕も無く、
唯一、観月の為の月見台のみに心血を注いでいる。



この当時、公家が新しい住まいを作る場合、
作事奉行、今で云う建築家なる人物が存在し、
この時代の代表は小堀遠州になる。



しかし古書院にはその存在が見えてこない。
うがった見方をすると素人臭い、
公家、武家の屋敷の様式は年代的には
寝殿造り、書院造り、数寄屋造りの流れになる、ある意味ここでは逆。

専門家はこの様式に当てはめて設計を試みる。
古書院と名が付いているが、床の間以外の棚、
肝心の付書院がないので数寄屋?
これにも当てはまらないので、作事奉行抜きで、
智仁親王が大工と作り上げたオリジナルな建築様式になりそうだ。



全体的な建物の大きさに比べて柱が細いのは、
最も手短に存在する角材、それに安価。






但し、広縁から張り出す月見台だけは質素だが立派だ。
竹を簀の子を張り巡らせた幅は4m、奥行き2.9mの竹縁。



これだけの月見台だったら作事奉行なら必ず欄干を付けるだろう。
智仁親王にとっては、ムダであり目障り、

 

 

 

 

 

 





簡素で質素、倹約が成し得た、
最低限集約された素材と素材の本来の材質を生かす、
建築の素人だが三百年後のモダニズム建築の到達点を先取り。











月こそ したしみあかぬ おもふ事 いわんばかりの 友とむかひて






その研ぎ澄まされたストイックな建築感は、
オーストリア・ウィーン出身の哲学者、
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインに通じるものを感じる。



彼も建築家では無いが、
1926年に唯一、姉の新しい家の設計をしている。
当時装飾的な建築物が横行している時代にもかかわらず、
彼の手掛けたストーンボロー邸は極端に簡潔な外観、
明かりは裸電球、カーペットやカーテンすら一切使用しない、



桂離宮の一番の魅力は観月の装置だが、
延段、飛び石、数々の立石、捨石等も見応えがある。



最も格式が高く、立派な延段は古書院の玄関口である
御輿寄へ向けて斜めに伸びる「真の延段」。
このDVDでは「真の延段」取り上げられていなかったが、









外腰掛前の「行の延段」、






笑意軒前の「草の延段」、
この延段の名前は漢字の3書体「真・行・草」に因んでいる。

 



石に関しては智忠親王は有馬の遊行の際、
自ら気に入られた自然石など、
全国各地から珍しい石が取り寄せられているので、
石好きにはたまったモノでは無いが、
何せ見学は前後が厳重な要員によりガードされているので、
おそらく落ち着いての観賞は無理( ´艸`)。




それでは最後に月に纏わる意匠について。
ここには時空を超えた桂の月の影響力が及んでいるのかもしれない。



中国の伝説の月桂とは月に生えている1500メートルにも及ぶ大木。
切っても切っても直ぐに枝が成長する為、
葉を煎じて飲むと永遠の命が授かると言われていた。



何度も言っているが、
初代智仁親王の作事の痕跡が残っているのは古書院のみで、
その後造営された中書院、新御殿、茶屋等は第2代智忠親王よるものだが、
父の遺志をを仰ぐべく、その痕跡を垣間見る事が出来る。

又、よく小堀遠州が桂離宮の造営に関わったとする話もあったが、
当時の政治的立場、物理的にも不可能とする説が濃厚で、
第2代智忠親王の増築、造営の際、遠州の義弟である中沼左京、
遠州の門下である玉淵坊が関わったと言われている。



古書院前の月の灯籠。










月波楼は池の西岸、古書院の北側にある茶屋。
南を正面とし、池に面した北側と東側には石垣を築く。
名は白居易の『西湖詩』の「月点波心一顆珠」
(月は波心に点じ一顆(ひとつぶ)の珠)という句に由来。









二の間に掛かる「歌月」の扁額は霊元天皇の筆と云う。











後水尾上皇をお招きする為に増築した新御殿。











月を意匠化した引手。











どこから見てもモダンな月の欄間。





建物についての造成年代はある程度分かっているが、
庭園、茶屋についてはどれだけ初代智仁親王の造作が
残され生かされているかについては定かではない。



舟遊びの最後は笑意軒。











船着き場の足元を照らす三光燈籠には、
竿、中台はなく、日、月、星を表す丸、三日月、
四角の穴が笠石の2方向に開けられている。









軒下の隅には「浮月」の手水鉢。







最初に月見が出来るのはこの笑意軒。



その後、古書院の月見台、それとも月波楼。。。