八条宮家の別荘として造営された桂離宮は、
『源氏物語』松風の巻の「桂殿」のモデルになったと伝わる、
藤原道長の桂山荘の故地で、それを意識していると言われている。
又、智仁親王は幼少から学才に優れ、
早くから細川幽斎に歌道を学び、譲位の一件以後は、
『万葉集』『古今集』『源氏物語』など古典文芸へ深く没頭する。
『源氏物語』第21帖少女で登場する姫君を住まわせた六条院、
春の町に紫の上、夏の町に花散里、秋の町を中宮、冬の町に明石の御方。
庭園には草木が無数に植えられ高い築山と広大な池を有し、
池は隣の秋の町へと続いており、女房たちが舟で往来する事もあった。
それを再現しようとしたのが、
桂離宮の池泉回遊式庭園に設けられた茶屋とも言われている。
それぞれの茶屋は春の賞花亭、夏の笑意軒、秋の月波楼、冬の松琴亭。


1615年に桂離宮された智仁親王は1629年に亡くなられ、
その跡を継いだ第2代八条宮智忠親王はその時まだ10歳、
なす術も無く荒れ果てていた桂離宮の修復に着手したのは1641年頃、
加賀藩2代藩主・前田利常の娘・富姫と結婚した24歳、
1642年の頃から、前田家の財力のバックアップもあり、
本格的に改修し、御殿を増築し、庭園を整備する。
初代智仁親王が造営した池泉回遊式庭園と茶屋は、
父の遺志を継ぎ、弔うかのように、
更にそれ以上に『源氏物語』の情景に思いを馳せていた。



松琴亭に向かう手前に鼓の滝に遭遇する。











僅か20センチの落差が桂川上流の大堰川のせせらぎを演出している。












その先に見えるのが松琴亭。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



智仁親王は13歳の時、
関白九條兼孝の娘と結婚するが、25歳に死別。
37歳の時キリシタン大名京極高知の娘・常子と再婚。
松琴亭の全面一帯は智仁親王の正室、智忠親王の母の故郷、
思いでの丹後宮津の天橋立に見立て、岬に立つ灯籠。









池の東岸に建つ入母屋造茅葺の屋根をもつ茶屋。
6mの築山の上に建ち、最も格式が高い茶亭とされている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



石造りの白川橋を渡ると松琴亭茶室の躙口がある。











三畳台目の遠州好みの「侘囲(わびがこい)」は、
2代・智忠親王により増築されたと伝わる。










点前座に風呂先窓、色紙窓、上に突上窓が開く。
障子窓が8つある事から「八窓席」「八つ窓の囲い」とも言われている。










一の間・二の間、ドイツの表現主義の建築家・ブルーノ・タウトを
驚かせた淡いブルーの市松模様の襖。







袋戸棚小襖、一の間石炉上に「鳥の絵」は狩野三兄弟の安信筆。


 

4亭の内3亭には竈構え(くどがまえ)が設けられていて、
茶の湯以外に簡単な料理なども提供されていたと思われる。

 

 

 

 

 



夜通し歌会や月見を楽しみ、疲れたらその茶屋で就寝。



特に松琴亭は外に向けて竈構えが設けられているので、
今で云うグランピングの様な施設と思われる。











中島の山上を登ると、











「峠の茶屋」とも呼ばれる賞花亭が見えてくる。







賞花亭は今出川の八条宮家本邸に実在した「竜田屋」を、
2代・智忠親王が移設した茶屋である。



正面の壁面には竹の粗い連子窓が開けられ、
その左右の袖壁には下地窓が造られ、
田舎風の茶屋の風情を醸し出している。










「たつたや」と染め抜いた暖簾が正面に掛けられ、
この茶屋からは離宮全景が眺望できる。










現在の一般の見学は橋を使って移動するが、
当時の招待客は船で移動する事になる、優雅この上ない( ´艸`)。











茅葺寄棟造の母屋に柿葺の庇をつけた農家風情の茶亭。











軒前には「草の延段」。






笑意軒(しょういけん)は茶屋の中でもっとも規模が大きく、
初代・智仁親王の御学問所として建てられたと言われているが、
2代・智忠親王により造営されたとも云われている。

 

 

 

 

 

 

 


その名は李白の「山中問答」によるとも、
「一枝漏春微笑意(一枝より春の微笑がこぼれる)」によるとも言う。



軒下小壁に掛る扁額「笑意軒」は、
初代・智仁親王の兄・曼殊院良恕入道親王(1574-1643)の筆による。
その下の6つの丸型の下地窓は珍しく、2代・智忠親王によるもので、



桟の組み方にそれぞれ変化をつけ「四季の窓」と呼ばれ、
丸窓は室内より眺め、外の光の変化を楽しみ、
陽が落ち室内の明かりが丸窓から外へ漏れ風情を生む。



単なる桟の変化だけでなく、枯れ蔦を絡ませ、
より一層の心憎い趣を演出。





「夏の御茶屋」とも呼ばれ、離宮内で最初に昇る月を観る事が出来、
その後、古書院の月見台に場所を移して月を鑑賞した。
内部の基本構成は一の間、次の間、口の間、中の間、



心憎い意匠は櫂形の引手、地袋、天袋などにも見られる。







良く取り上げられる正面腰壁、



変わり菱形、天鵞絨(てんがじゅう、ビロード)の市松模様と金箔。











それよりも個人的な好みはこの正面の地袋の波模様?
暗くて色は判りにくいが実際は紺色で、
ある説明によると横に棚引く雲が表現されているらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 















こちらにも立派な竈構えが設けられているので、
当然、食事も宿泊も可能だったと思われる。











大きな窓からは隣接した水田では作業をする農夫。





元々「瓜畑のかろき茶屋」、瓜畑に造られた山荘。
そこには皇族と接触をあまり持たない庶民の、
生活の営みが身近に感じられる環境。

 



高く頑丈な塀で囲いを造らず、
気軽に声が掛けられるような農家風の佇まい。
初代・智仁親王の気さくな人柄が偲ばれる。

 

 

 

 






「夏の御茶屋」の位置付けだったが、秋の風情も格別。










最後の月波楼(げっぱろう)は古書院北の小高くなった所に建つ茶屋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古書院同様、月を愛でるために東に向け建てられていて、
開放的な一の間・中の間・口の間の三室と竈構えをもつ板敷からなり、
これらがコの字形に配列されて入り口となる土間庇を囲んでいる。









膳組所は南東に長炉、北西に竈、袋棚、釣棚、下地窓を設け、
ここでもに簡単な料理なども提供されていたと思われる。










開放的な室内から庭園の景観を楽しむ為に、
部屋の配置や開口部に細心の工夫が施されている。




「秋の御茶屋」とも呼ばれ、
一の間と中の間の襖障子に流水紅葉散らしの唐紙、
嘉長作の機(はた)の杼(ひ)形の引手が用いられている。



この一日二日の京都は日の入も早くなり、
少し暑さが和らいだ気もするが、まだ日中の撮影は躊躇している。
次回もこの続きが続きそうでなので、何卒ご了承ください。