一週間ほど前に私は鳥取県にいた。
少し前に再会した古い友人からの招きを受け、
恒例になりつつある山陰の小旅行。

是非とも行ってみたかった大山お膝元にある美術館。
1995年に開館した写真家植田正治の個人美術館である。



この日はあいにくの曇りで、
更に中国から大量の黄砂が西伯郡伯耆町を覆っていた。

 

 

 

 

 



田園地帯のその先に鳥取県のシンボルの一つ、



地元民から伯耆富士(ほうきふじ)と親しまれている、
大山を望む事になるが、視界は真っ白。





個人美術館としてはかなり大規模で、
その経営は約1万人口の伯耆町(ほうきちょう)となり、
その本気度が窺い知る事が出来る。



植田正治は1913年3月27日に鳥取県境港市に生まれ、
ここを拠点に70年近く写真家として活動している。

写真家は画家と違って一般的に認知度が低い。
私自身、日本の写真家の草分け的存在の木村伊兵衛、
土門拳の名前はウル覚えで知っているが、
いざ写真となると既に骨董品の頭に浮かんでこない。
しかし不思議と植田正治の作品群は印象的に残っている。

所謂、鳥取砂丘を背景にしたドラマ仕立ての写真。
前衛的な演出写真は「植田調」として知られ、
写真誕生の地であるフランスでも「Ueda-cho」として紹介されている。
一部の愛好家からの支持も高く、
ファッションデザイナーの菊池武夫とのコラボ、
福山雅治のシングル「HELLO」のCDジャケットを手がけている。



初期傑作の「少女四態」(1939年)







「パパとママとコドモたち」(1949年)



この代表作には家族総動員で出演している。
左から和子(長女)、充(次男)、植田正治に肩車される亨(三男)、
紀枝(妻)、そして汎(長男)である。まるで映画の一コマ、
砂丘の上で永遠の物語が過去、現在、未来に繋がっているかのようだ。



建築設計はポストモダニズムで頭角を現した高松伸。
京都大学出身でバブル期数多く京都市内に建物を設計しているが、
前衛的過ぎたのか、バブル崩壊と共に取り壊された建築も少なくない。



植田正治写真美術館は1995年完成なので、
高松伸初期の装飾性、折衷性、過剰性は全く見受けられず、

 

 

 

 

 

 

 

 


ポストモダニズム以前の建築家、
安藤忠雄の作品を彷彿させるコンクリート打ちっ放しにガラス、
些か無機質で冷ややかな空間構成になっている。

 






高松伸の作品の特徴は建物と建物の接合部、窓枠、柱等に、
高価なメタリックな鋳造を採用する事も多いが、
この植田正治写真美術館にはそのような形跡は無く、
町営なので予算的に無理だったのか、
その主張の少ないニュートラルな空間がより一層、
植田正治のモノクロ写真が素直に入って来るように感じた。

 

 





砂丘ヌード(1951年)





美術館には本人から寄贈された12,000点の作品を収蔵していて、
作品の印象とは違い、実際の写真サイズは思ったより小さく、
常設展と定期的に企画展も開催されているようだ。

 



この時は二度のヨーロッパ旅行での作品をまとめた
追憶のイメージ―『植田正治小旅行写真帖 音のない記憶』











建物のスリット状の隙間から水面に写る
「逆さ大山」を望むことができるように設計されているが、
この日の曇り空では全く、










ガラス面の貼られた帽子のシルエットは、
最近のSNSを意識して仕掛けられているようで、
この時の来館者は私ら以外は外国人の老夫婦連れ、
二十歳過ぎの3名の女性、年寄りは全く反応しないが、
お若い女性はスマホで楽しんでいるようだった。








この日は曇り空に加えて中国の黄砂が視界を遮り、、、

 

 

 

 

 







建築好きにとっては演出掛かって、

 

 

 

 

 

 

 





何とも幻想的で植田正治の写真、高松伸の建築、田園風景、
見えない「逆さ伯耆富士」も相俟って、スコブル心地よかった。

 

 

 

 

美術館の横には大山ハムの工場が隣接していて、右手の黒い建物は直売所。

オープンカフェでは大山ハムのソーセージを使ったホットドッグ等も提供している。

ちょうど昼だったので、セットメニューで頼むと、

マクドより安く昼食を済ます事が出来た。

 

 

所在地 - 〒689-4107 鳥取県西伯郡伯耆町須村353-3
開館時間 - 10:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日 - 火曜日(祝祭日の時は翌日)、展示替えの期間、

12月から2月までの冬季期間