現在の仙洞御所の庭園は
大宮御所と仙洞御所が一体化した池泉回遊式庭園で、
仙洞御所の造営当時の敷地はこの南池、

 


この以南の敷地に御殿、庭園、茶席が点在していた。










北野天満宮でも見かけたが、
褐色に枯れたモミジがここでも確認。





南池に架けられた石の八つ橋は、
明治時代に作り替えられている。

 



藤棚になっているので、
初夏にはさぞかし見映えの光景を見せるがはずだが、
予約を入れない限り難しいだろう、桜、紅葉の季節も同様。










先ほど渡った紅葉橋、その横のなだらかな築山は紅葉山。






砂浜に見立てた洲浜には、
「小田原の一升石」と伝わる丸い石が、
ビッシリと敷き詰められているが、跡形も無く銀世界。



悲しいかな当初の小堀遠州作の庭園は、
ほんの僅かに一画に残すのみで、
更に後水尾上皇が大掛かりに改築した庭園もかなり変更されている。



又、改築当時の建物も全て焼失していて、
最も南にある醒花亭が最も古く、
18世紀前半、霊元上皇の御所として使われていた時の茶席で、
それでも文化5年(1808)に再建された建物だそうだ。



カメラの望遠で覗いてみると、
その洲浜の奥には吹雪に佇むその醒花亭。






解説員の少し長い話が終わり、八つ橋に上がり辺りを見渡すと、



先ほどの吹雪が嘘のように水面が静まり返っていた。











ここで私の失礼な言動を謝らなくてはいけない。
解説員の説明が長いと二回もボヤいてしまったが、
これは貴重な写真を撮らせて頂く者にとっては、
ある意味、気兼ね無く自由に撮影機会を与えてくれた、
と思うのが礼儀であると思う次第。







以前読んだ「終わらない庭園」と言うタイトルの本。
昭和を代表する三島由紀夫、井上靖、大佛次郎が、
仙洞御所、桂離宮、修学院離宮について語り、
三島由紀夫が仙洞御所を担当していた。








井上靖、大佛次郎の語る日本庭園は何の違和感なく、
素直に言葉が入って来るのだが、
三島由紀夫の語る仙洞御所は現実の仙洞御所とかけ離れた、
どこか文学的、感情的、詩的、苛立ち、紀行文とは別物、
全く仙洞御所が浮かび上がらず、八つ橋については矛盾した表現。
果たして三島由紀夫は日本庭園を好きだったのか疑問すら感じた。


生前の三島由紀夫の住まいは大田区西馬込、
西洋庭園の中央には彼の理想する肉体、アポロン像が置かれ、
白亜の邸宅はヨーロッパの王朝趣味を想わす装飾。


三島由紀夫は仙洞御所の後半で西洋の宮殿、庭園について述べている。
彼はおそらくご自慢の自邸を造る時に実際ヨーロッパを訪れ、
フランスのベルサイユ宮殿をはじめ、イギリス、イタリア、スペイン等、
建物と庭園の関係性を詳しく調べ上げていたのだろう。



醒花定(せいかてい)は南池を一望する格好の場所にあり、
焼失した止々斎(ししさい)、鑑水亭(かんすいてい)
と共に煎茶式に言う三店(酒店、飯店、茶店)を構成したと思われ、
一方、亭内三部屋を三店にあて、
この茶亭一つで三店を兼ねたという説もあるそうだ。








内部は東奥に四畳半の書院があり、
その手前は庭に面する五畳の入側(縁側)で、
書院と入側の境に建具を入れないで、
大きな空間として使えるようになっている。
他には水屋などが備えられ、
西側には簡単な調理ができるように炉が作られている。



先ほどの三島由紀夫の話に戻し、彼が仙洞御所を語る場面で、
わざわざベルサイユ宮殿の事を出してきたのが不可解だ。





彼の日本庭園を語るボキャブラリー不足?
とも思ってみたが、これはひょっとして、



この仙洞御所の最初の庭園は、
幕府お抱えの東西一の作庭家・小堀遠州が担当。
寛永3年(1626年)、二条城二之丸庭園を完成させ、
ノリノリの時期、すでに怖いもの知らず。

新しい考え方、新しい文化、趣向に寛大な後水尾上皇。
貴重な西洋式庭園の図版を観る事の出来た唯一の作庭家。
その上、前衛的な事が好きな小堀遠州が考えついたのが、
日本庭園の範疇を大きくかけ離れた、
大きなプールの様な池に蓬莱山、噴水のような仕掛け、
東側90mの水路には全く様式の違う8種類の橋がジグザグに架けられ等、



1630年に日本で初めての西洋式庭園が仙洞御所に誕生していた。










三島由紀夫は晩夏の蒸し暑い午後に初めて仙洞御所に訪れている。

京都のこの時代の蒸し暑さは発狂モノである。










彼の観ていた仙洞御所とは、
小堀遠州が完成させた束の間の西洋式庭園で、
時空を超えた小舟の蜃気楼だった、のかもしれない。