「京の冬の旅」、今年初めての拝観は大徳寺の芳春院。
非公開文化財特別公開は全面的に撮影禁止の所が多いが、
昨年、同じく大徳寺塔頭の黄梅院が撮影OKになっていた事もあるので、
僅かばかり期待を募らせ足早に参道を叩くも。。。

 



期待は外れ、解説員の説明を冬の陽光の下で聞く事になる(笑)。
芳春院(ほうしゅんいん)は大徳寺の塔頭の中では最も北に位置する。




慶長13年(1608年)に前田利家の夫人・松子(まつ)が
玉室宗珀を開祖として創建した寺院で前田家の菩提寺である。
芳春院の寺名は夫人の法号「芳春院殿花巖宗富大禅定尼」に由来する。
大徳寺塔頭22院の中で唯一、女性が創建した寺になり、
全国的に見ても、女性の法号を命名した唯一例と言われている。



芳春院の醍醐味は小堀遠州の楼閣山水庭園と、
「昭和の小堀遠州」と例えられる中根金作の
方丈前の枯山水庭園が観覧できる事だろう。


肝心な写真は無理なので、
パンフレットからの借用画像で雰囲気だけでも。
かつては、庭一面に桔梗が咲き誇り「桔梗の庭」と言われていたが、
現在は「花岸庭(かがんてい)」と呼ばれ、
花を思わす造作は無いが、端正な枯山水式庭園として、
中根金作の代表作の足立美術館、妙心寺退蔵院の余香苑の
大胆な造作、起伏とは全く異なる、水平ラインが際立った、
稀に見る落ち着きのある庭園に仕上がっている。



この借用画像ではお判りにいただけないが、
最近見た枯山水の中ではピカイチ、手入れが行き届いている。
この地は大徳寺の最北に位置し、見渡すと遮るものは一切ない。
京都は南から緩やかな傾斜が生じていて、
芳春院と今は無き羅生門、正式には羅城門の高低差は約55メートル。
又、羅城門とほぼ同じ東西ラインの東寺・五重塔の高さとほぼ同じ。
それ故に一段と見晴らしがよい。



そして本堂北に設けられた二重楼閣建築「呑湖閣(どんこかく)」は、
金閣、銀閣、飛雲閣と供に「京の四閣」に数えられている。
呑湖閣は禅寺で祖師の像や位牌を安置する堂の事で昭堂とも呼ばれる。
閣上には先祖の「菅原道真」が祀られ、
閣下には芳春院開祖の玉室宗珀、皇族などの位牌が安置されている。

 



又、楼閣山水式庭園のは印象的な名前が配されている。
「呑湖閣」の呑湖とは比叡山の向こうの琵琶湖を飲むという意味。
前面の池は「飽雲池 (ほううんち)」、
その池に架かる橋は「打月橋(たげつきょう)」


この「呑湖閣」は江戸時代前期、1617年、
前田利長が小堀遠州に依頼して建立と伝わる。
この写真では右側の石組が見れないが、
楼閣山水式庭園は京都でも珍しく、私自身も初めての拝見。
小堀遠州の作と伝わるが、医者・横井等怡との合作とも云う。
しかし庭園は度々改造され、右側にに書院が建てられる近代、
大正期以前は現在よりも広く、飽雲池には滝石組より水が注いでいた。
この枯滝付近に創建時の面影が残るものの現在、滝は涸れている

 

都林泉名勝図会データーベースより

又、寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には
呑湖閣は付近はほぼ変わらないが、庭園の右側が描かれていないので、
小堀遠州オリジナルを窺い知る事は出来ないものの、
図絵からは現在書院の建っている場所も庭園の領域として、
伸びやかな造形を保っていたと推測できる。
現存する山水式庭園はかなり変更されているのか、
それ故か石組が散漫で雑然としてる印象を受けた。


その先の路地庭には松月軒(七畳向切)、落葉亭(三畳台目)、迷雲亭、
裏千家が今でも利用している如是庵(四畳半下座床)、
名前の付いていない瀟洒な中庭を通って芳春院山門を出る。

 

 

 

 



この一帯は格式の高いお寺が多いのか、
総見院はじめとして殆どが撮影全面禁止、
この一休禅師ゆかりの真珠庵も、





真珠庵の北隣の大仙院も、



「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られる程、
侘び茶を創始した村田珠光、武野紹鴎・千利休・小堀遠州等、
名立たる茶人に係りのある塔頭を有する禅宗の臨済宗寺院。



それでも20年程前はこれらの寺院も撮影出来た時があったらしい。
その当時の事を伝える記事を読むと、今の厳しい規制に対して
禅寺ならばもう少し寛容であってもしかるべきと嘆いておられた。



最後に現在外観を修理工事中の仏殿にお詣り。











こちらは一切の撮影の禁止事項は無く、











振り返ると利休切腹の起因となった金毛閣が聳え立っていた。