アンディ・ウォーホルのポップ革命は当初は底抜けに明るく、
アメリカの繁栄と栄光、そして富を象徴していた。
ところが1962年の夏に起こった129人が死亡した
ジェット機事故の新聞写真を元にした作品を手掛け、
ここから「死と惨劇」シリーズが始まる。
同時期映像にも興味が注がれる事になるが、アンディの新境地が開かれ、
自動車事故、災害、惨事などのアメリカの闇の部分が炙り出される。



「ギャングの葬式」1963年

 

 

 

 

 

 

 

 

 



「病院」1963年











「小さな電気椅子」1964~1965年
彼は非情な死をイメージする電気椅子を多く作品にしている。
「小さな電気椅子」から1967年の「大きな電気椅子」まで。



両手を上げて身投げをする男性を描いた「自殺」(1963年)
その中でも1964年にニューヨークで開かれた万国博覧会で、
建築家のフィリップ・ジョンソンから
ニューヨークのパビリオンの正面の壁画を依頼される。
アンディはアメリカの13人の重要指名手配犯を大きな作品にした。
公開される予定だったが、これは州知事も巻き込む大騒動となり、
結局銀のスプレーで塗り潰され、この作品はおそらく残っていない。
国際的なイベントでも臆することなく新しい表現を追求したアンディ。
一般公開されなかったものの、ここでも一般常識と戦う革命家の顔を覗かせる。


クラウス・ホネフ著の「アンディ・ウォーホル」より




この時期、美術作品、音楽プロデュース、映画製作など多岐に渡り、
メディアの露出度も増え、彼の発言、行動は世界中が固唾を飲んで待受けた。
一方、アンディの人間性も取り沙汰されるようになっていく。
良く聞かれたのが彼の非情さ、冷酷さについて、
恋人のように振舞っていたイーディ・セジウィック、
多くの取り巻き、そしてニコ。



アンディ30歳の頃、
ファクトリーの常連だった若き舞踏家がドラッグ漬けになり
この時も幻覚剤を飲んでらりって飛び降り自殺した。
アンディはこう残念がった。「なぜ、知らせてくれなかったのだろう…
フイルムを回せたのに…」


色んな批判はあるものの、
アンディ・ウォーホルが成し遂げた事は、
映画と音楽は置いといて、大きく芸術の世界では
コペルニクス的転回を成し遂げたのでは、それも短期間で。


又、アンディはパラノイアと言う言葉をよく口にしている。
偏執病、妄想症とも呼ばれ、不安や恐怖によるものだが、
彼の場合は誇大妄想、病的なこだわりが大きく感じられる。
アンディ・ウォーホルが1968年の襲撃事件の数年後、
自身の人生を振り返ってみたくなり、「ぼくの哲学」を発行。

 



と言っても難しい事は一切語っておらず、
「アンディがウォーホルになるまで」に始まり、
愛、美、有名、働く、時、死、経済、成功、
芸術、肩書、ピッカピカ、下着パワー、彼の特殊な世界観が満載。

不思議な事に哲学とは程遠い、ピッカピカの章では、
何んで芸術家がこんなに掃除について語るのか?
下着パワーの章ではブリーフ、どこかに香水の事も触れていた。
かつて哲学書で掃除とブリーフについて語られた事があっただろうか?

 


若い時から愛用していて、シャネル№5の良さも、
その他数知れない香水を愛用して、瓶のデザインも気に入り、
多くの瓶もコレクションとしていたので、
シャネル№5の広告を担当出来たのは、相当嬉しかったと思われる。


この回で終わる予定でしたが、
肝心な「最後の晩餐」が残ってしまったので、
最後の其五は京都ネタを希望される読者を無視して、
次回に続きます( ´艸`)。