今回の展覧会で思った以上に若い女性が多かったんは、
おそらくスマホによる撮影が全面的に許可、そのSNS効果だと思われる。
アンディな代表作「シルヴァークラウド(銀の雲)」1966年。

 


銀色のヘリウムを入れた漂う枕型の風船は、
何故か日本でも円型とかハート型で商品化されよく見かけた。
アンディは初期、銀は何色にでもなれる可能性を秘めているから、
未来と永遠を感じ、ナルシズムも感じ、しかしこの時、芸術に限界を感じ、
雲の様に消え去る事も考えたが、彼の行動、言葉は余り当てにならない。
アンディ・ウォーホルの名言がネットに拡散しているが、
本人は記憶力に全く自身なく、テープレコーダーが発売されると飛びつき、
約4000本のテープを残し、そしてテープレコーダーをワイフと呼ぶほど。
昨日言った事と全く逆を言ってしまうほど、日々変化していた。

 





アンディはキャンベルスープ、コカ・コーラ同様に
ハリウッドスター、有名人をシルクスクリーンで作品化している。
日本人では坂本龍一とモデルの山口小夜子だけ、もう一人画廊経営者の奥さん?
でもこの方はちゃんと制作代金500万ほど請求されたらしい。



アンディは根っからのアメリカの自由主義、資本主義の賛同者。
それ故に共産圏の中国に対して冷ややかと思うと、
文化革命の毛沢東の肖像画を多く手掛けている。
それは中国を訪れた以降になるのか?

 


中国本土に氾濫するスーパースター毛沢東の肖像写真、
アンディに掛かれば毛沢東も揺るぎないポップアイコン。




ファクトリーではよく発砲事件が起きている。
確か、出入りしていた女性がモンローの肖像画が撃ち抜いている。
正味ヤバかったのが1968年6月3日アンディ40歳の時、
フェミニズム団体「全男性抹殺団」のメンバーだった
常連のヴァレリー・ソラナスに銃撃され重体となるが、
なんとか一命をとり止めている。これは衝撃的な事件だった。



これはもちろんアンディを撃った犯人ではない。
銃口を向ける「ダブル・エルヴィス」1963年

ある時、俳優界きってジャンキーなデニス・ホッパーが、
毛沢東の肖像画を見るなり、気味悪がり銃弾を二発撃ちこむ事態。
後に二人の共同制作となり、後に30万2500ドルで落札、
今はとんでもない価格になっている筈。
マイナスな要素もアンディ・ウォーホルの名前が入れば、
プレミアムを持つ程、彼にはすでに特別な価値が付加されていた。



「ハンマーと鎌」1976年



マルクス・レーニン主義、共産主義のシンボル、
農民と労働者の団結を表す「鎌と槌」も題材にしてしまう。


1963年から、アンディは60本を超える映画も手掛けている。
眠る男を6時間映し続けた『スリープ』(1963年)。
撮影担当ジョナス・メカスが定点カメラで
エンパイア・ステート・ビルを撮り続けた
8時間5分上映の『エンパイア 』 (1964年)、
『カウチ 』(1964年)、『ヴィニール 』(1965年)。
いわゆる実験映画的な手法で、
当時の文化芸術のメッカとされていたチェルシーホテルでの、
女性の生々しい生活を描いた『チェルシー・ガールズ 』(1966年)

この映画は観覧者は気が付かないようだったが、
会場の中央辺りの上層のモニターに映りだされていた。

 



当然通路に突っ立て観る人もいないし、
上映時間3時間半、そんな事をして観覧者の迷惑にもなるし、
これってストーリが無いので、よほどの忍耐力が必要。
公開当時、全米で大ヒットとした伝わるが、
どれだけの人が作品を理解し楽しんだかは疑問。
おそらくアンディ・ウォーホルの映画だから。。。

それでもいつも最高の表現方法を求めるアンディ。
ヌーヴェル・ヴァーグの最高傑作、
『勝手にしやがれ』(1959年)を意識し、それを超える作品、
それはジャン・リュック・ゴダールだって無理だった。
1970年代に入ってからは実験作品から一転して、
商業的にポルノ映画『ブルー・ムービー』、『ヒート』
ホラー映画『悪魔のはらわた」『処女の生き血』
カルト映画の巨匠、ジョン・ウォーターズを意識したかな様な
1977年『アンディー・ウォーホルのBAD』を発表するが、
ジョン・ウォーターズのカルト性を残念ながら超える事が出来なかった。



これは映画製作に乗り出した時にファクトリーに訪問した有名人を、
スクリーン・テストとして4.5分程撮影している。
ボブ・ディラン、サルバドール・ダリは分かるが、
右下の日本人俳優は中谷昇、センターが岸田今日子、1964年に訪れているのだ。
そして左下がモデルで女優のイーディ・セジウィック。

ファクトリーにはアンディお気に入り女性を
ミューズ(女神)と呼んでもてはやしていた。
初代ミューズはベビー・ジェーン・ホルツァー。
イーディ・セジウィックは名門の家系に生まれ、
画家を目指しマンハッタン。 アンディとはパーティで知り合い、
ファクトリーの常連となり、二代目ミューズになる。
アンディの映画に数多く出演、モデル業、
60年代のファッション・アイコンとして地位を固める。

 


アンディー・ウォーホルとイーディ(1965)ロンドン
photo:バート・グリン


アンディはホモセクシュアルだが、
イーディの事は恋人のように接していた、たとえ肉体関係は無くとも。
一見貴族的で自由奔放なイーディにぞっこん。
いつものアンディ・ウォーホルはクールで不可解な表情だが、
この時が最も表情豊かに幸せそうに感じられる。

 

そんな雰囲気垣間見られる、

 

Andy Warhol & Edie Sedgwick INTERVIEW 1965

 

イーディの事をもっと知りたい方は
Edie Girl On Fire Video

と言っても、そんな幸せな時間は長続きしなかった。
イーディはミュージシャンのボブ・ディランと親密になる。
ボブ・ディランとアンディ・ウォーホルは親交はあったが、
元々あまりいい関係では無さそうだった。
「イーディの美しさがロックスターのせいでだめになっていく」
ボブ・ディランは「アンディはスープ缶のように中身が空っぽ」。
その後イーディはボブ・ディランとも破局を迎え、ミューズの座を失い、
仕事も低迷し、父から財政的な支援も打ち切られてしまう。
精神的にも経済的にも苦境に陥りドラッグへと溺れていく。
ファクトリーのミューズになってから6年後、
オーバードース(過剰摂取)で28歳という若さでこの世を去った。

アンディは後のインタビューで、
イーディに対して「(友人だったのは)だいぶ昔の話だし、
それほど親しくもなかったしね」と語り、
イーディの死に対しても無関心だったと言われている。
アンディ・ウォーホルの行動はよく冷酷と評されるが、
果たしてそうなんだろうか?

イーディとアンディの関係について、
友人のトルーマン・カポーティは後にこう語っている。
「思うに、イーディはアンディがなりたかった何者か、だったんだ。
ピグマリオン風にアンディは彼女に転換しようとした。(中略)
アンディ・ウォーホルはイーディ・セジウィックになりたかった。
チャーミングで生まれのいいボストン社交界の娘になりたかったんだ。
アンディ・ウォーホル以外の誰かになりたかったんだ」

ミューズの座はボブ・ディラン紹介のニコへ。
パリを中心に『ヴォーグ』、『エル』のモデルとして活動し、
その後、フェデリコ・フェリーニの『甘い生活』(1960年)の映画等、
1962年に俳優アラン・ドロンとの子供を出産し世間を騒がせたニコ。
イーディの様な天性のチャーミングさは無かったが、
180cmという長身で、揺るぎない存在感を持った女性だった。
特に気に入られ、実験映画『チェルシー・ガールズ 』にはほぼ主演。
アンディ・ウォーホルの初めての音楽プロデュース、
『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』にも抜擢。

 


レコードとしては成功したが、リーダーのルー・リードと折り合いが悪く、
バンド脱退後、ソロシンガーとして活動を始める。


映画『チェルシー・ガールズ 』と同名の
ソロ・デビュー・アルバムを1967年に発売。
ルー・リード、ジョン・ケイル、ジャクソン・ブラウンが参加。
ボブ・ディラン、ティム・ハーディンも楽曲を提供している。

 

Nico - These Days


ロックでもフォークでも無い、
彼女の独特のドイツ訛りの唄い方が熱狂的なファンを掴む。
彼女もファクトリーで覚えたドラッグに苦しめられるが、
1988年7月18日、不慮の事故で亡くなっている。享年49歳。
今尚、日本でもカルト的な人気を保っているアーテストである。


アンディ・ウォーホルを語るとついつい横道に逸れてしまうが、
次回は何とか終えたいと思っております( ´艸`)。