もう一ヵ月も前になるかもしれないが、
東山の智積院の紫陽花の報告をしていた。

 



金堂裏のあじさい苑は見頃はまだだったか、
すでに今の時点ではその時期を過ぎている。
その金堂の北側にも以前から紫陽花が植わっていて、
時期をズラして咲いているようだ。

 

 

 

 

 

 

 



以前にも見かけた事がある、
紫のホタルブクロがその数倍にも繁殖していた。






そして参道脇には智積院の寺紋である桔梗が、
近年植えられるようになった。

 


この時点ではまだ咲き出したばかりで、
真面の撮影できる容姿の桔梗は無かったが、






今の時点では京都の桔梗の名所各地は、
おそらく見頃を迎えている筈、天得院、廬山寺等々。



桔梗は茎が細く、あの華奢な容姿に似ず、
地中には太いゴボウのような根を張る。











つぼみが徐々に緑から青紫にかわり、
五枚に裂けて星型の花を咲かせる。






 

それと細い茎がすらっと天に伸び、
鮮やかな青紫の花を咲かせるのが特徴だが、
この時点ではそのような桔梗は見当たらず、
殆どが地べたを這う、どこか寝そべった姿の桔梗ばかり。

 

 

これは四つ花弁の桔梗、不吉?






智積院の寺紋が桔梗紋になったのは、
智積院の変遷に加藤清正が深く関わった事によるが、
加藤清正の正式な家紋は蛇の目になる。




桔梗紋と言えばやはり明智光秀。
意外と知られていないのが坂本龍馬、
有名な着物にブーツ姿の写真の、
肩の前の家紋を確認すれば分かる筈。


既に紹介済みの大津市坂本の西教寺。
織田信長による比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失、
その後光秀はこの地に坂本城を築いたが、
西教寺の復興にも援助を差し伸べ、
境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が今も残る。



その近くには日吉東照宮、慈眼堂も建立されている。
慈眼堂は徳川家康・秀忠・家光の三代将軍に仕えた、
「黒衣の宰相」南光房天海の廟所である。

 

 

 



時間に余裕は無かったが、
折角来たので両方ともに立ち寄る事にした。



延暦寺の門前町、大津市坂本には、
安土城をはじめとする城郭や寺院などの石垣を手掛けた、
穴太衆積みの石垣で知られ石工集団は住居を構え、
坂本の町には今も至る所にその石垣が残り、
坂本城、西教寺も彼らの手によるものである。








慈眼堂は恵日院の境内にあるが、
滋賀院にも隣接している。



明智光秀の出自は不明な事が多いが、
南光房天海もそれ以上に不明で、
関東天台宗の本山の住職となったのは慶長4年(1599年)、
までの正式な記録が残っていないらしい。

 



その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉、
幕府、江戸の渦巻状に発達した都市計画で重要な役割を担う。
慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、
南光坊に住して延暦寺再興に深く関わっている。


ここで浮上するのが明智光秀と天海との同一人物説。
1582年(天正10年)6月2日早朝「本能寺の変」、
その後、光秀は6月13日の山崎の戦いで羽柴秀吉に追い詰められ、
坂本城を目指して落ち延びる途中、伏見区小栗栖において
落ち武者狩りで殺害される。これが一般的な歴史観であるが、
撤退しているとは言え、百戦錬磨の軍勢、
尚且つ、頭脳明晰で健脚な光秀が百姓の竹槍に命を落とすのは、
些か不自然であり、簡単に首を召し取らせるとしたら、
影武者を使うなど、それ相応に裏の裏の駆け引き、
謀略の意図が存在したのでは、と考えるのが妥当では無いか?
秀吉は千利休に切腹を命じた時も首実検を行っていないが、
謀反者の明智光秀の首実検も秀吉は行っていない。
余程後ろめたいものがあったのか、単なる小心者?



「本能寺の変」直前、宿敵・武田家に勝利した信長にとって、
残る敵は東に北条家・上杉家、そして西の大名・毛利家である。
念願の「天下布武」の達成が目前になっていた時期に、
織田信長が30名程度の小姓を伴い急遽上洛して本能寺入り。
6月1日、信長本能寺で茶会と酒宴を催し、深夜に就寝。
ある茶人の方の指摘によると、
この不自然な状態を作ったのは羽柴秀吉ではないかと、
この時期は梅雨の時期で大雨が降りしきる中、
安土城から38点もの「大名物茶器」をわざわざ運んでいる。
秀吉は毛利家を落とすには信長方の大量の援軍が必要との早馬を出す。
信長は天下も欲しいが、念願の名物茶器も欲しい、魔が差した。


「本能寺茶会」は公卿衆に披露する為と言われているが、
実は博多の豪商茶人・島井宗室と神谷宗湛に披露するのが目的で、
島井宗室の所有する「楢柴肩衝」を手に入れれば、
天下の三大・大名物茶入が揃う事になり、
名実ともに天下人になれると千載一遇のチャンス。


その事を知っていたのは千宗易と羽柴秀吉、そして明智光秀。
事態が正確に時を刻むように進む。よく囁かれるが利休と秀吉、
そして光秀はこの時点で情報を共有していて、共謀していた?

「本能寺の変」と並び不可解な事件は「利休の自刀」、
三名が共犯者で表の主犯格は光秀、既にその人物は亡き人、
秀吉は天下人、利休は天下一の茶人。
秘密を握る利休は「目の上のたんこぶ」、
独裁者が生き延びる為にはいずれその者の抹殺を考える。


明智光秀は比叡山焼き討ち以来、
織田信長の傍若無人の立ち振る舞いに、
国家、国民に対して考え方に大きな不安を感じていた。
今で云う、プーチン政権みたいなもの。


それが1582年5月28日に開かれた愛宕山連歌会で、
光秀が詠んだ「ときは今 あめが下知る 五月かな」

「とき」→「土岐氏=光秀の出身」

「あめ」→「天=天下」

「下知る」→「命令」、何とも意味深な歌である。

しかしこの計画は、信長より野心家の秀吉より引っ繰り返される。
この時点で謀反を犯したのは明智光秀で、
その後の武将、民衆の支持、結束を得られるのは、
謀反者の明智光秀の首を討ち取った者に与えられる。
狡猾な秀吉ならば考えられる筋書きであり、その通りになる。



この右手には滋賀院門跡があって、
境内には小堀遠州作の庭園が造営されていて
西教寺の庭園よりも見応えのある池泉鑑賞式庭園らしい。
残念、見逃してしまった。

 

 

 

 

 






通りを挟んで急な斜面に設けられた階段。
最初はさほど急こう配を感じなかったが、
鳥居の奥の階段は心臓破りの階段だった。



天海は日光東照宮を造営する前、
家康公を祀るのにふさわしい社殿を、と云う事で
徳川家光の命じられてこの地に日吉東照宮を造営。
日光東照宮の雛型と言われている。


ともかく息が乱れ、数分は放心状態だった( ´艸`)。

 



湖面には遊覧船ミシガンが再開され、
手前の岸には光秀の坂本城、
対岸の遥か彼方に安土城が聳え立っていたのだろう。











土日は唐門が開かれ、拝観できるみたいだが、
平日は閉ざされている。


日光東照宮には桔梗紋なるものが現在でも残されていて、
最も象徴的なのは陽明門の門衛の袴の桔梗紋。

上野東照宮は寛永4年(1627年)、
藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建されている。
危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと
高虎と天海に遺言され、当初は中央に家康の像、
左右に高虎と天海の像が祀られていたらしい。


何故に明智光秀と天海との同一人物説は語られるのか?
これは余りにも「本能寺の変」が不可解な事が多く、
それ以上に語るべき隠喩、暗示の多さだろう。

共に信長による比叡山焼き討ちによる被害の復興に尽力し、
家康を神格化した日光東照宮に残る桔梗紋、
日光で一番眺めがよい地を「明智平」とし、
天海は死後、慈眼大師と名付けられ、慈眼堂に祀られる。


「慈眼」とは慈悲の心をもって衆生を見る仏菩薩の目。

近江滋賀郡に加え丹波一国を与えられた光秀は、
丹波亀山城に続いて周山城を築城し、密厳寺も建立。
密厳寺には光秀の木像が建立されていたが、

「本能寺の変」後、存在が危ぶまれ、川向いの慈眼寺に移され、
黒塗りにされ難を逃れる事になる。
現在は「くろみつくん」と呼ばれ、
マスコット的な存在になっているが、
右肩下には薄っすらと桔梗紋が確認できる。


武力による「天下布武」を念願としていた信長より、
政治力による「天下泰平」を目指していた光秀は、
不覚にも秀吉の寝返りに一旦屈するものの、
慈眼の志は途絶える事無く、大僧侶・天海に成り代わり、
徳川家康・秀忠・家光に仕え、本望を果たす事になる。

そのとどめが1614年方広寺鐘銘事件、
豊臣秀忠が方広寺の大仏を鋳造した際に合わせて作った、
梵鐘に「君臣豊楽」「国家安康」と刻まれた文字に言い掛かり。

 


南禅寺の高僧・文英清韓が書いたもので、
「家康」「豊臣」は「隠し題」となり、
その威光が現われる共にを願ったものだが、
「君臣豊楽」の文字が豊臣家の繁栄を祈願し、
「国家安康」は家康の名を分割し、身を切断する事を意味し、
徳川家を呪詛していると非難し、
儒学者の林羅山にも解読を依頼し確信を得て、
この事件を端を発し大阪の陣が勃発、豊臣家は滅びる事になる。
天海はそのきっかけとストーリーを編み出したと言われている。



日本の将来を大きく変えるチャンスを土壇場で寝返った
秀吉の浅ましい野望の根を完璧に途絶えさす為に、
最後に鬼となり、天命を全うした光秀の「慈眼」だったのかもしれない。

いずれにせよ稚拙な個人の妄想による推測なので、
切に記憶に留めないようにお願い申し上げます。