最近は春、初夏、梅雨の流れが曖昧になりつつある。
昨日の京都はすでに真夏日の32℃、
夏場しか使用しないエアコンの掃除をして初運転。
二日前に伺った鹿ケ谷の安楽寺。
確か春と秋に特別公開しているが、
この時期はサツキが見頃と聞いていた。
安楽寺は法然院と共に茅葺の山門が、
多くの写真愛好家に人気の的で、
山門には撮影者が途絶える事はあまりない。
私も何度か撮影しているが、一度も山門を潜った事は無い。
薄空色の着物の女性が足早に石階段を駆け上がる。
この時期ならではの涼し気な着物に暑さが心なしか拭える。
この着物のお若い女性は受付のアルバイト嬢だった。
サツキはすでに見頃を過ぎているようだったが、
この奥の本堂ではご本尊共々の仏像も公開されていて、
安楽寺の由来についての説明が10分程なされる。
住蓮山安楽寺のホームページよると、
住蓮山安楽寺は法然上人の弟子、住蓮上人と安楽上人を開基とする。
この両上人が、現在地より東1キロメートルあたりに「鹿ヶ谷草庵」を結び、
布教活動の拠点を持たれたのがこの寺の始まりとされる。
両上人が称える礼讃は誠にすばらしく、
その場で出家を希望する人も多くいたそうだ。
その中に後鳥羽上皇の女官、松虫姫と鈴虫姫がおられました。
両姫は法然上人や開山両上人から念仏の教えを拝聴し感銘され、
いつしか仏門に入りたいと願うようになりました。
建永元年(1206)12月、両姫は後鳥羽上皇が紀州熊野に参拝の留守中、
夜中に京都小御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵」を訪ね剃髪、出家を乞います。
最初、両上人は出家を認めませんでしたが、両姫の強い信念に感銘される。
19歳の松虫姫は、住蓮上人から剃髪を受け「妙智法尼」と法名を授かる。
また17歳の鈴虫姫は、安楽上人から剃髪を受け「妙貞法尼」と法名を授かる。
この事を知った上皇は激怒し、念仏の教えを説く僧侶に弾圧を企て、
翌建永2年2月9日、住蓮上人は近江国馬淵(現在の滋賀県近江八幡市)で、
同日安楽上人は京都六条河原(東本願寺近く)で斬首されました。
この迫害はこれに止まらず、法然上人を讃岐国(香川県高松市)に流罪、
親鸞聖人を越後国(新潟県上越市)に流罪に処します。
その後、両姫は瀬戸内海に浮かぶ生口島の光明防で念仏三昧の余生を送り、
松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生を遂げたと伝えられています。
また、両上人の亡き後、「鹿ヶ谷草庵」は荒廃しましたが、
流罪地から帰京された法然上人が両上人の菩堤を弔うために
草庵を復興するように命ぜられ「住蓮山安楽寺」と名付けられました。
その後、天文年間(1532〜55)に現在地に本堂が再建され、
今日にいたっています。
説明を受け、後は庭園と諸堂を拝見する事に。。。
具体的な諸堂の説明書きはなさそうだが、
本堂東側の建物は書院のようだ。
庭園についても詳しい事は分からないが、
全体が枯山水式庭園、苔地に飛石、サツキの刈込が連なっている。
本堂以外の建物は比較的新しいと思われるが、
それが簡素な回廊で結ばれているのが印象的だ。
この先の客殿はフリースペースとして、
ギャラリー、催し物、特別公開時は喫茶として使われ、
その架け橋にはベンチが設けられ、
東山の木々を借景とし境内の桜やサツキ、
紅葉等との一体感が楽しめる仕掛けが造られている。
そして簡素な建具、開口部、坪庭のしつらいが心地よい。
茅葺の山門しか知らなかったが、
境内は樹木と建物の融合的な空間が存在していた。
紅葉期の色鮮やかな景色がすでに想像できる。
お寺の方はサツキが終盤に差し掛かっているのをお詫びされ、
代わりに井戸の近くに甘茶が咲き出している事を説明されていた。
「甘露庭」で有名な建仁寺・霊源院でも、
例年より早く甘茶の花が咲き出したとも紹介されていた。
茅葺山門の表の顔は嫌という程見て知っていたが、
境内は全く知る由も無い、有機的な空間が秘められていた。
出来れば今年の秋の特別公開時にも伺いたい。
この春の公開は残すところ6/4のみ。
帰り道、お隣の法然院の白砂壇にも立ち寄る。