古田織部に関する茶道具関係は多く残っているが、
住居、茶室、庭園は現存するモノは殆ど無く、
茶室に限っても藪内家に伝わる燕庵、
奈良国立博物館の八窓庵も残念ながら復元されたものである。
庭園については唯一、武野紹鴎、千利休が修行をした
堺市の南宗寺の方丈南側の枯山水庭園。
国の名勝にも指定されているが、
織部の焼き物からは想像できない位、
落ち着き払った平庭枯山水と背後の石組で纏められている。


堺市ホームページより


豊臣秀吉・徳川家康の茶堂に抜擢されながらも、
これほどまでに遺構が少ないのは、
やはり徳川方の軍議の秘密を
大坂城内へ矢文で知らせた等の嫌疑をかけられ、
大坂落城後の6月11日に切腹を命じられ、
古田家は断絶した事に尽きるのだろう。

この切腹劇には一説、
千利休が茶の湯を通して政権下でも影響力が増し、
秀吉が恐れをなして取った行動と似ていて、
家康は千利休の志を継ぐ織部に茶の湯の教えを乞うが、
その反面、行動力のある古田織部にはゆくゆくの脅威を感じ、
それならば家族共々根絶させてしまえ、
とばかりにお家断絶を命じたとも言われている。

時代が変われど時の権力者の不穏分子の扱いはエグイ。

先日、興聖寺の古田織部作「降り蹲」を紹介したが、



その方丈に江戸時代に作庭されたと伝わる、
南に平坦な庭園と西に池泉鑑賞式庭園が残っている。











お寺の関係者に伺ったが作者については、
歯切れの良い回答は得られなかった。





興聖寺は1788年の天明の大火で焼失し、
本堂以外は新しく再建された建物だが、
庭園の石組と築山は創建当時の遺構と考えられないだろか?



南面の平庭は極シンプルで
少しこんもりした築山に僅かな石組み。











西面に回り込むと少し異様な光景が開けている。







築山の無造作に置かれている石組みは違和感がある。

 



それに手前の延段から池に架かる石橋も、
こんな様式の地割を見た事が無い。
滝石組も変わっている。





興聖寺の周りは結構高層マンションが乱立している。

 

 

と言っても京都は高さ制限が厳しいので、31m(約10階)以上は建設不可。
東京の感覚だったら低層になるのか?
それでも現在は南部開発の為、イレギュラーで100mまで緩和しているそうだ。












興聖寺の庭園はこれ以外に「降り蹲」の西側に
露地庭の様な平庭が残され、











更に奥の茶室付近には井戸を置く、
開放的な枯山水が設けられている。


 

織部のパフォーマンスの高さは
『茶話指月集』で語られた有名な逸話、
千利休は弟子達の集まっている席で
「瀬田の唐橋の擬宝珠の中に見事な形のものが2つあるが、
見分けられる人はいないものか?」と訊ねた。
すると一座にいた古田織部が急に席を立ってどこかに行き、
夕方になって戻ってきた。
利休が何をしていたのか訊ねると
「例の擬宝珠を見分けてみようと思いまして早馬で瀬田に参りました。
さて、2つの擬宝珠は東と西のこれではありませんか?」と答えた。
利休をはじめ一座の者は、織部の執心の凄まじさに感心した。

こちらは前回紹介した「降り蹲」。

 


これらの庭園は全て大きくは繋がっていて、
今現存する築山、石組、灯籠、飛び石、延段の多くは、
創建当時の遺構と考えるのが自然ではないだろうか?



もし創建当時の「降り蹲」が古田織部作ならば、
少なくとも方丈の南、西の庭園も織部作と考えられないだろうか?
千利休の「人と違うことをせよ」の教えを貫いた織部。

茶器をわざと壊して継ぎ合わせ、
そこに生じる偶然の美を楽しむ「破調の美」
「大井戸茶碗 銘須弥 別銘十文字」、
墨跡を2つに断ち切った「流れ圜悟(ながれえんご)」
伊賀焼の水差し「破れ袋」の幾つもの亀裂は、
阿曽山大噴火で流れ出したマグマを彷彿させる。
不調和の中に生まれる整い、その即興的・抽象的な表現は
ハプニング、前衛芸術で頭角を現したオノ・ヨーコ、
草間彌生らが活躍する350年も前に古田織部は実践。



この作者不明の異様な庭園は、
「降り蹲」に通じる『織部好み』、
非対称、個性、自由、奔放、革新、共生、独創、多様
前出の南宗寺の枯山水庭園より
オリベイズムを感じられるのは私だけであろうか?