京都の天皇家にまつわる庭園は修学院離宮、仙洞御所、
桂離宮はすでに何度か紹介しているが、
京都御所は何度も伺いながら、
併設する庭園をちゃんと紹介していないので、
今回改めて紹介してみます。

京都御所内には幾つかの庭が存在するが、
一般的には御池庭と御内庭が代表的な庭園となる。
御所の慶長度造営時に小堀遠州が設計を担当し、その後手が加えられ、
現在のような庭の原型ができたのは延宝三年(1675)。
その後も手を加えられていると思われるが、
仙洞御所庭園の様に大きく変更は加えられていないと思われるので、
小堀遠州の足跡は垣間見る事は可能と思われる。



紫宸殿の東を廻り込むと
小御所と御学問所の建物に出くわす。
その前に開けるのが御池庭(おいけにわ)。



大きな池を中心とした池泉回遊式庭園で、
西岸に栗石(ぐりいし)を敷き詰めた州浜が造られ、
池には3つの中島があり、木橋2基、石橋3基が架かる。










雪見燈籠の立つ蓬莱島には、御所の主のアオサギが佇む。










池に架かる欅橋(けやきばし)は、当時は総ケヤキ造りであったが、
現在は橋脚は花崗岩になっている。






この欅橋は渡る池を一周できるのだが、
残念な事に進入禁止となっている。



どこまで改修されているかは推測しか出来ないが、
小堀遠州のオリジナルならば、おそらくもっと斬新な手法、
大胆な石組が見受けられても良さそうである。
仙洞御所庭園もそうだが、
小堀遠州のオリジナルは西洋式様式を取り入れる等、
当時としては斬新である意味前衛的な庭園だったが、
後に後水尾上皇により大改修され現在の王朝風に趣になっているが、
この御池庭も同様の改修がなされている思われる。

 



塀を隔てて御常御殿の前に御内庭(ごないてい)が開けている。








御池庭とはガラッと趣が違い、
この力強い石組み、赤松の植栽、
恐らく小堀遠州の遺構と思われる。




遣り水を渡った東側には4畳半茶室「錦台」が建つ。







遣り水が流れ、土橋や石橋、木橋が架かっている。
又、庭の橋や灯籠、庭石などの多くは、
天皇への献上品が使われている。

 



 

 

 

 

 

 

 

奥に見える茶席の「泉殿」には
『伊勢物語』に登場する八ッ橋が架かり、
近くに吉田良煕献上の糸桜が植えられている。




又、橋に至る飛石は八瀬・高野村の献上で、
「泉殿」は茶会・歌会のほか、
地震発生時の天皇の避難所として設置され、
「地震御殿」の異名もある。




この飛び石の先に“御涼所”の庭門が見える。
これ以上立ち入り禁止だが、この先には明治天皇の父である、
第121代・孝明天皇好みの茶室「聴雪」が建てられている。



その「聴雪」の北側に「蝸牛の庭」と呼ばれる
枯山水庭園が造られているそうだ。カタツムリの庭?
大いに興味がそそられ是非とも拝見したいが、
こちらも解放される予定は無そう。
そして孝明天皇は生涯平安京内で過ごされた最後の天皇でもある。

 

 

 

 

 




日本庭園に似つかわしくない長方形の花壇は、
紛れも無くなく小堀遠州の遺構?

 

 

 



先ほど仙洞御所庭園の西洋式手法の取り入れについて触れたが、
当然、依頼主の後水尾天皇と小堀遠州は打ち合わせをしていて、
後水尾天皇の新しいもの好きを考量して設計されていると思われる。

 


しかし完成した庭園は日本庭園の範疇を大きくかけ離れた、
大きなプールの様な池に蓬莱山、噴水のような仕掛け、
東側90mの水路には全く様式の違う8種類の橋がジグザグに架けられ等、
それまでの日本庭園の伝統を覆す、まさしくアバンギャルド、
さぞかし後水尾天皇は度肝も抜かれたと察せられる。
小堀遠州は幕府お抱えの東西一の作庭家なので、
上皇であってもおそらくクレームは出せなかったのだろう。
結局、修学院離宮庭園の様な王朝風に大改修されたのは、
小堀遠州没後の事である。いくら遠州作の庭園であっても、
やはり奇妙奇天烈な庭園は余程お気に召せなかったのであろう。
しかしもし、遠州作のオリジナル庭園が残っていたならば、
おそらく国宝級の貴重な遺構になるはず、残念。
そのメインの庭園以外に幾つもの長方形の花壇が図面に残っていて、
おそらくこの長方形の花壇は遠州の遺構と思うのだが。。。