米、一日の感染者100万人超オミクロン感染拡大。
これは脅威ではあるが、
日本においても三が日が終わった時点から
感染者が急増して第六波が懸念されだしている。
これは京都市を見るだけでも紅葉期から年末年始の
急な観光客の増大はコロナ禍前のオーバーツーリズムを
思い起こさせるものがあり、これは当然の帰結であると思う。
しかし一方、WHOの新型コロナ対応責任者であるマハムド氏は4日、
オミクロン株の感染者が他の変異株に比べて重症化しにくい、
多くの研究結果が出ていると明らかにしている。
重い肺炎を引き起こす他の変異株と違い、
オミクロン株による症状は鼻や喉などの上気道に集中していて、
正確なデーター分析が現在なされているらしい。
要するに風邪か従来のインフルエンザ程度になれば、
極度の神経質になる必要も無くなるが、
個人的にはマスクは抗がん剤投与の8年前から
常に付け続けているので、この習慣は今後の予測不能の対策として、
日常化して浸透すれば良いとも思っている。
世界的には無理かもしれないが国内だけでも( ´艸`)。
元旦と二日は実家の尼崎で過ごした。
蟹スキにしゃぶしゃぶ、
二日の昼はてっちり、夜はすき焼きと鍋三昧。
そのふぐの鍋までには時間があったので、
初めて近くの尼崎城を見に行く事にした。
私の実家は阪神淡路大震災で移転を余儀なくされ、
四回もの引っ越しで落ち着いたのが築地の公団。
頭上の要塞の様な橋げたは大阪と神戸を結ぶ大動脈の国道43号線。
その隙間からビル群に囲まれた尼崎城が少し見えた。
昔はこの一帯は城下町が形成されたいたと思うが、
私が知った小学生の時は既に43号線南側は阪神工業地帯が開けていた。
戦後の日本経済の生産基地としてフル稼働で廃液と排煙をまき散らし、
尼崎を公害の街の世間に知らしめていた。
43号線を過ぎて阪神尼崎駅に方面進むと尼崎市中央図書館。
大学受験を控えた高校三年の時によく通った施設。
当時は川沿いに500メートル北にあったのが、
いつの間にかこの地に移転していた。
その川の名前は庄下川。
自宅からは近道の川沿いをチャリンコで通っていた。
当時は上流の工場から垂流される廃液で汚染され、
ヘドロの川と呼んでいた。
昔は自然の川の様に土手も河川敷もあったが、
ともかく水らしき物体は確認できず、
暑い夏の虹色にぎらついた川は強烈だった。
今はその面影も無く、
擁壁で囲まれた味気ない川に変わってしまったが、
水質は飛躍的に改善されたみたいで、
カモの様な水鳥が泳いでいた。
信号を渡って図書館の前は櫻井神社。
肝心の尼崎城は?
図書館と同じ敷地内に再現されていた。
まるで特撮映画のジオラマのようだ。
単体で捉えると立派な城である。
江戸時代初期に築城された尼崎城は、
大物川と庄下川が大阪湾に注ぐデルタ地帯に築かれた城で、
尼崎城に直接船が横付けできた事から、
海に浮かんだような美しい城であったと言われている。
尼崎城の再建は旧ミドリ電化(現エディオン)の創業者の
創業の地に恩返しがしたいと考え、
10億円以上の私財を投じて天守閣を再建されたらしい。
私は以前から尼崎は城下町で武家屋敷や寺町もあった、
歴史的な町として知っていたが、
2019年再建された時に初めて知った尼崎市民も多いらしい。
もっと言えば、平安時代は風光明媚な所だったらしい。
現在でも寺町街は残っているが、
そんな昔を忍ばせるものが殆ど残っていないのは残念である。
国道一号線、国道43号線、
阪神電車がひっきりなしに運行する空間の城壁。
それにしても日本一、
最も都会に聳える城になるのでは?
知らんけど( ´艸`)。
桜の様な木?
あまり見かけない寒桜だが、
説明にはヒマヤラザクラと書かれていた。
敷地の南に古学の祖、契沖(けいちゅう)の誕生地の石碑。
江戸時代中期の真言宗の僧であり、国学者の契沖は
徳川光圀から委嘱を受け『万葉集』注釈書をはじめ、
『厚顔抄』『古今余材抄』『勢語臆断』『源註拾遺』
『百人一首改観抄』『和字正濫鈔』など数多く、
その学績は実証的学問法を確立して、
国学の発展に寄与した人物の一人。全く知らなかった。
この日は暖かく、思いもよらず厚着をして出た為、
途中で汗をかくほどで、十分に汗を拭く事も出来ず、
鼻水を止まらなくなり、風邪?オミクロン株?
少し心配したが、義理の兄が用意したくれた、
熱いふぐ鍋をたらふくよばれ、事なきを得た。
その為、2、3キロ体重が増える事になる( ´艸`)。