今季最も寒い日を迎えている京都市内。
流石に紅葉情報は途絶えたが、
建仁寺の「潮音庭」だけが晩秋の趣を独り占めしていた。

建仁寺塔頭の正伝永源院に少し前に伺って、
庭園の紅葉は芳しくなかったが既に紹介済み。
後日、茶室「如庵」を紹介すると言っていたので、
この時期、特に目ぼしいモノが無いのでお時間潰しに。。。



織田有楽斎が作り出した「如庵」は、
杮葺き入母屋風の妻を正面に向け、
千利休の待庵とも違った瀟洒な構え。

 









「如庵」は創建から明治維新に至るまでの二百数十年間、
正伝院所有の茶室として維持されていたが、
その後は転々と移築が繰り返され、数奇な運命を辿る事となる。









1873年、正伝院は永源庵と合併し、正伝永源院に改められた。
この時「如庵」、露地、書院などは祇園町有志に払い下げられ、
「有楽館」と名付けて保存公開されていたが、
やがて維持運営が困難となり、1908年に再び全館売却された。
その後、東京・三井邸から大磯・三井邸、
1972年、名古屋鉄道によって堀口捨己の指揮の下、
愛知県犬山市の有楽苑に移築され、
1951年に文化財保護法による国宝に指定されている。



この写しの「如庵」は1996年に数寄屋建築の第一人者、
中村昌生氏の監修より復元された。











竹を詰め打ちにした有楽窓、
古暦を腰貼りにした暦貼り、











有楽斎は利休門下ではあったが、
利休の侘びた草庵茶室とはやや趣を異にする、
二畳半台目「向切」の小間。




二畳半台目(丸畳二畳+半畳一畳+台目畳一畳)茶室と、
三畳の水屋の間からなる。点前座と客座のつくり、躙り口、
又、窓や壁の腰にも随所に独創的な工夫がなされている。



 

 

 

 

 

 

床脇にウロコ板を入れ斜めの壁を作っている事から、
「筋違いの囲」と言われている。



正伝永源院に伝わる掛け軸、
織田有楽斎像は狩野山楽によるものである。










妻に「如庵」の木額が掲げられているが、
細川護貞(1912~2005)揮毫による。










路地庭には現在は使われていない井戸。











織田長益は桃山時代の武将、織田信長の弟だが、
利休七哲の一人として有楽・如庵(うらく・じょあん)と号し、
そのため織田有楽斎として言及される場合も多い。

 

 

 

 

 

 

 

 


利休亡き後、秀吉の茶の湯をつかさどる等したが、
大坂退去後は京都に隠棲し、茶の湯に専念し趣味に生きた。