琵琶湖の水位低下が問題になりつつあるが、
戦国武将の明智光秀が琵琶湖畔に築いた
坂本城跡の石垣の一部が露出して話題になっている。
一方、長浜市公園町の豊公園湖岸にある
太閤井戸跡も大きく姿を現し、共に話題となっている。
太閤井戸は秀吉が築いた長浜城で使われていたとされ、
1929年に起きた琵琶湖の渇水で発見されている。

共に戦国時代しのぎを削って築いた城が、
琵琶湖を挟んみ湖岸で向き合っている姿を想像するのは、
城、戦国ファンのみならず、胸躍るものがある。


滋賀県は京都と比べたら寺院、庭園では注目されないが、
近江国はかつて織田信長の居城・安土城があった場所。
当時の城は無いものの、多くの寺院、庭園が造営され、
その上、近江八幡出身の小堀遠州作の庭園も残されているので、
最近は京都より滋賀県の庭園に興味が傾いている。

 



三日前に訪れたのは東近江市にある百済寺。
てっきり「くだらでら」と思っていたら、
「ひゃくさいじ」と読む。










重厚な石垣に覆われ、
最後の山城の趣を今に残す紅葉スポットで、
湖東三山の一つ。

 

 



織田信長によって天正元年4月11日に焼討されたが、
かつてポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが
「地上の天国 一千坊」と絶賛した百済寺は、
推古14年、聖徳太子によって創建された近江国最古級の寺院。



坂道の参道が思ったよりも長い、ヤバい!












ようやく拝観入口付近に辿り着く。







一気に開ける本坊・喜見院の庭園。



豪華な池泉廻遊式ならびに観賞式庭園で、
現代鈍穴(どんけつ)流の作法で作庭されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



鈍穴流とは遠州流の茶人・勝元宗益を初代とし、
代々受け継がれている作庭スタイルは“鈍穴流”と呼ばれ、
滋賀県の東近江地方に多くの庭園を残してる。









 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寺社庭園としては県内最大級で巨石群の配置。












この庭は東の山を借景に山腹を利用し、
大きな池と変化に富む巨岩を配している。











まだ紅葉が始まったばかりだが、
ここが最も鮮やかだった。











山肌を上がり本坊と池を見下ろす風情は、
昨年伺った近江八幡の遠州作・教林坊の様でもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



この高低差を楽しむのは近江国の庭園の特徴なのか?












この山肌の庭園を登ると。。。












近江八幡、湖東の平野、琵琶湖、西方55キロ先には比叡山、
ほぼ同一35度線上に太郎坊(八日市)、比叡山、次郎坊(鞍馬山)、
更に880キロ先には渡来人の母国が位置している。











この時は紅葉が始まったばかりだが、
この見通しの良い木立が錦に色合いに染まるのは頃は、
宣教師ルイス・フロイスが「地上の天国 一千坊」と
称した光景が展開するのだろう。











日本初の僧正になった百済の渡来僧・観勒(かんろく)は、
百済寺の建立に際し、祖国、百済の都であった熊津(公州)と
同じ北緯35.1度線上に百済寺を建て、
夕日の向こうに百済国を偲んだと言われている。





長い参道を登ると大草鞋を吊り下げた仁王門の前で、
お年を召した人たちが渋滞している。



ここで最後の難所が待ち構える( ´艸`)。












そこを制した者だけが本堂の正面に辿り着く。







そこから参道を見下ろすと、
おばさん方が愚痴をこぼしながら悪戦苦闘。



私は一人だったので無言だったが、
連れがいればおそらく「エライ!」と発しただろう( ´艸`)。






かつて聖徳太子が山中に光を放つ霊木の杉と出会い、
根が付いた立ち木のまま刻んだ十一面観音(植木観音)を
囲むようにお堂を建てたのが始まり。



延暦寺と共に百済寺も信長の焼討にあっているが、
前夜、この十一面観音は持ち出され、
内陣の厨子には秘仏本尊の2.6mもある、
十一面観音立像(奈良時代)が安置されていた。


この後予定では湖東三山の西明寺、金剛輪寺も巡るつもりだったが
思いのほか時間と体力を使い、これにて近江国とオサラバ!