なかなか本格的な紅葉狩りが出来なくて困っている。
今年は直前の天候が紅葉には適していないので、
冴え渡った色鮮やかなモミジは期待薄だが、
それなりの紅葉景色は撮るつもりでいるものの、
躊躇している今日この頃。


取りあえず現在考察中の桂離宮の続きを。。。
桂離宮のモダニズム建築として注目させたのは、
ヨーロッパの建築家達である。

 



一般的にはドイツの建築家ブルーノ・タウトとされているが、
タウトは表現主義、色彩感覚を基本とする、
モダニズム建築とはかなり距離のある建築家である。
フランス人のル・コルビュジエもいたが、
最もモダニズム建築に共通項を見出したのは、
ドイツ人のヴァルター・グロピウスで、彼が求めた

 


 

機能的、合理的な造形理念に基づく建築・工芸・デザイン、
無駄な装飾を廃して合理性を追求する
モダニズムの源流となった教育機関バウハウスの
設立者であり、建築家である。


それは桂離宮の何処を指して言っているのか言うと、
庭園でも五つの茶亭でもなく、
御殿の古書院、中書院、新御殿の雁行型に配列された建築群である。


西和夫著 『桂離宮物語―人と建築の風景』より

 

三つとも建築時が異なる別荘風住居である。
このズレは成立時だけではなく、平面、立面にも認められ、
三つの建物は床高、天井高、屋根高が微妙にズレながら繋がっているが、
何一つ欠ける事が許されない程に調和し、
ポストモダン建築の旗手・磯崎新の指摘する、
「たゆたうような快楽」や「微妙な諧調」に当たるのかもしれない。



桂離宮の建物の建築様式は何かと言うと、
寝殿造り?書院造り?数寄屋造り?



恐らくどの様式にも当てはまらず、
唯一無二の桂離宮様式と言えるものである。



このクラスの建物にしては華奢な柱が、
軽快なリズムと流れを作っている。
一般的に宮家の寝殿、住居には瓦葺の反り屋根となるが、
サワラやスギの柿葺むくり屋根を採用しているので、
重厚な屋根の圧迫から解放され、実に軽快である。

それでは最初に造られた、
後に古書院と呼ばれる「瓜畑のかろき茶屋」は
どのように作られたかを探ってみる。

 



見ての通り至ってシンプルで、
手の込んだ造作は一切なされていない。
殆ど垂直と水平の材料しか使われていない。

建築については素人だが、

初代八条宮家智仁親王の類稀なる美的センスと、
造作担当の大工によって作られた結果ではないだろうか?

西和夫著 『桂離宮物語―人と建築の風景』より

 

二条城、御所の建物は建築家に相当する作事奉行があてがわれるが、
当初の「瓜畑のかろき茶屋」クラスでは、
施主と大工の棟梁で打ち合わせで十分だと思われる。

もちろん財政的余裕、幕府からの大きな支援も無かったので、
単純明快、極めて質素な造りとなっているが、
これが世界をリードするモダニズム建築家に刺さる事になる。

類稀なる建築は意外と時の気まぐれで生まれた可能性がある。
1620年、徳川和子の入内盛儀に智仁親王は出席を辞退し、
桂のかろき茶屋で石川宗林と木下長嘯子に茶が振る舞われ、
庭園の造営について意見を交換していた。
その時幕府の所司代以下は二条城から内裏に総動員されていた。

唐突に石川宗林と木下長嘯子の名前を出したが、
共に関ヶ原の戦い経験した武将である。
しかしそれをキッカケに隠棲し、宗林は茶人、
長嘯子は歌人として不可解な人生を送るが、
桂離宮の真のデザイナーを紐解くキーパーソンでもある。
これについては最終章となる其六で再登場予定。

初代八条宮家智仁親王の桂離宮の造営は
幕府側と一定の距離がいつも保たれていたようだ。
それ故に幕府のお抱えの小堀遠州とは親交はあるものの、
茶の湯の指導、意見を頂く程度の社交的なモノに止まっていた。



当初、「瓜畑のかろき茶屋」の襖絵は
今出川本邸の襖絵や屏風を描いた海北友松に頼む予定をしていたが、
既にこの時亡くなっていて、
石川宗林も木下長嘯子も「桂の襖絵は唐紙になさいませ」と薦めていた。
海北友松は建仁寺の「竹林七賢図」、「雲龍図襖」を手掛けた、
智仁親王お気に入りの絵師であった。


1629年5月29日、智仁親王の突然の死去、御年51歳。
今出川通りを挟んで近くの相国寺の僧昕叔顕啅は驚き、
八条宮の家臣は顕啅に葬儀の依頼をした。
本葬は相国寺慈照院で1629年4月19日に営まわれた。
盛大で華麗に行われ、建仁寺、高台寺、鹿苑寺の長老も出席。
亡くなる6日前に顕啅が受け取った智仁親王の発句は

けふきてハ 心もかろし 夏衣


八条宮2代の智忠親王は数え年11歳、
それから桂離宮は荒れてしまう。
1641年の12年後、智忠親王により第二期工事が始まる。

西和夫著 『桂離宮物語―人と建築の風景』より

智忠親王1642年9月前田利常の四女・富子を妃とする。
母は徳川秀忠の娘・球子。つまり富子は将軍家光、
東福門院和子の姪に当たる。
八条宮家としては将軍家、東福門院との結びつきは
この後の振る舞い、財政的にも有利に働く。

第二期工事は財政的にも加賀百万石の前田家、幕府の援助も得られ、
中書院の内部の造作は少し手の込んだものがモノが見られるようになった。

その一つが江戸活躍していた
狩野探幽・尚信・安信の3兄弟が襖絵を担当している。
これは同じ時期、御所の新御殿を担当していた小堀遠州の
取り計らいで、智忠親王は助言など頂くなど、
八条宮家と幕府の関係は改善していたが、
それ以上のモノでも無かったようだ。

最初の書院の増築の時、
智忠親王は今出川の本邸ように別棟を建て渡り廊下で繋ぐ、
又、父上がお気に入りだった
寝殿造りの透渡殿(すきわたどの)を考えていたが、
最終的に建物を直接繋ぐ方式をとっている。

これは智仁親王が生前「建物を廊下でつなげるのはもう古い。
花山院が考え出された方法、建物を直接つなぐのが良い。」
これは平安時代後期の歴史物語である「大鏡」に書かれていた、
風流者の花山院が新しい御所を作る時に考案した斬新な方式だったが、
この方式が採用された実際の建物は残っておらず、
智仁親王の頭の中では生き続け、
智忠親王はこれを桂離宮の造営時に蘇らせていた。
それだけではない、風通し、見晴らしを考慮して
新しい建物を少しズラして繋ぐげる、雁行型の建物群が登場する。


続く第三期工事は1662年頃に行われたとみられる。
現在「新御殿」と呼ばれる建物は、1663年の後水尾院桂御幸に備え、
御幸御殿として整備されたとされている。


それ故に最も贅が尽くされ、
框一段分高くなった「上段」に著名な桂棚と付書院がある。
桂棚は修学院離宮の「霞棚」、醍醐寺三宝院の「醍醐棚」と共に、
「天下三名棚」に数えられるもので、
黒檀。紫檀、伽羅、唐桐、唐桑など、
輸入品を主とした18種の銘木を組み合わせて作られている。
天袋に李白と林和靖図、地袋には円窓内の山水図を描き、
狩野探幽の筆とされている。

釘隠、襖の引手、板戸の引手などの細部に独創的なデザインが施され、
水仙形の釘隠、「月」の字形の引手、
春夏秋冬の花を盛った4種の手桶形引手、折松葉形の引手(楽器の間襖)、
市女笠形の引手(楽器の間板戸)などが施され、
外観の質素、簡潔なデザインから想像できない雅な造作がなされている。



この様に古書院、中書院、新御殿の内部様式はハッキリ違うが、
それが外観は一部のスキも無いように調和しているのは、
唯一造営当初のスタイルを保っていた古書院、
父が初めて造営した「瓜畑のかろき茶屋」の外観を
どうしても残したいと思う智忠親王の父に対する敬意、
その思いが見事に纏まり、調和を造る結果となったのでは!

 

造営時期が異なる三つの書院の合体建築物が、
二百年後のモダニズム建築をも凌駕する、
華麗なる総体を見せつけるのは、この桂の地には計り知れない、
類稀なる運命が備わっているような気もする。

次回は最終章として、桂離宮の真の制作者に迫ります。
紅葉便りも忘れずご報告する予定( ´艸`)。